2011年6月13日月曜日

2010年度農業経済学会

昨年度の農業経済学会に行ってきました。

文章の意味が通じないので補足すると、昨年度の農業経済学会は3月の予定だったのですが、地震のため昨日まで延期されていたのです。
開催地は私の母校早稲田。とはいえ、例年に比べると色々異例の開催で、運営された方たちは大変だったんじゃないかと思います。
私もシンポジウムしか行けなかったので全体を把握することができなかったのですが、シンポジウムの内容だけ、備忘録として残しておこうかと思います。

1.前説


昨年は、民主党政権の成立に伴って起きた農政の転換、特に戸別所得補償制度と減反政策・農地集約についての討論が行われました。その中でも、佐伯尚美先生が基調講演で農経学者は奮起すべき、と問題提起を残されたのが印象的でした。

今年の農経学会は、その佐伯先生の宿題に応える(と本間学会長が言っていた)会でもあったようです。

2.タイトル「日本農業のベースライン」(小田切徳美先生)

まず最初に、「最近の農業経済学会は、時事的な政策論争を繰り返していて、学問的な話をしていないのではないか?」という問いに対して、座長による整理がありました。
この「問い」自体、10年前の学会シンポのテーマだという事が、この議論の深刻さを示しているような気がしますが…。

座長が調べたところ、政策論争がよりタイムリーさを増すのは87年大会からのようです。初めて国際化の議論が始まった87年。これは明らかに85年の前川レポート、それに呼応する86年の農政審議会の影響を受けています。

時事問題重視を掲げてきた本学会における大会シンポジウムは、国際化を意識しても、農政を意識しても、いずれも「グローバリゼーションと農政改革」というテーマまたはその近傍に接近することになる(大会要旨集より引用)

とはいえ、集計してみると、シンポのタイトルが「政策」というのがこの20年で9回。「国際化」が87年以降7回。つまり25年くらいで16回。ちょっと多すぎじゃないか、という話です。


しかも、農業問題が政治的対立軸となるにつれて、農業政策は「選挙農政化」「ブーム的問題提起化」してきたと指摘します。

このことは、二大政党化という政党システムの変化に従ってその深刻さを深めています。民主党の個別所得補償政策がその事例として挙げられることが多いですが、実は、07年参院選敗北の後自民党が取った米政策や、突然起こった「限界集落」ブームや地域振興的政策も、同根の問題であることを指摘しています。
これらが例の「仕分け」なる文化大革命的ヒステリックイベントであっさり廃止になったのはご存じのとおり。そして、現在盛り上がっている大連立の障害4Kの一つとして、戸別所得補償が俎上に上っていることもご存じのとおりです。

このように、政治的取引の材料として政策が使われている中で、時事ネタに振り回されることは、学会を「知的刺激に乏しい集会」(『農業経済研究』73巻2号)にしてしまっているのでないか…。

そういうわけで、今年のテーマは「ベースライン」。国際化や、制度改革の基本となる日本農業の現状と特性を把握しよう、というのが今シンポのテーマというわけです。

以下、各報告者の内容を覚書程度にまとめておきます。テーマは農政理念・食料消費・政策システム・農業構造と農業生産の相互関係の4つです。


3.農業構造改革の類型論的検討(野田公夫先生)

類型論的視覚ということだが、何より日本の特徴を浮き彫りにする。野田先生は文章そのものがかなり味わいがあるなと思ったので、要旨集からそのまま抜き書きすると、

  • 近代化アプローチが妥当なのは農地法まで(by小倉武一)
  • 近世・近代を通した過去数百年に渡り、日本農業における生産力発展は一貫して経営規模縮小(正確に言えば大規模層の減少)に帰結していた(00年センサスの5ha層4.3万戸は明治41年水準:by梶井功先生)
  • 生産手段を指標にとれば、「遅れ」が歴然とする日本農業が、絶対値(単収)のみならず近代化対応(近代における伸び率)にも優れた能力を示した
  • 小農(家族経営)化・小規模化しつつ高密度の組織化を進め、<零細分散錯圃と混住性><高度化された土地利用><農家相互の重層的協業編成><ムラによる土地・水資源管理><ムラという領域/統治意識の形成>等を特質とする農業・農村のシステムとエートスを生み出した

文章は取り方もあるでしょうし、なかなか評価が難しいところです。肯定するには、総体としての議論や現実認識、それから、ここに述べた日本の特徴を、他のアジアや発展段階等に合わせて定量的に比較をする必要性がある気がしますが、ここで野田先生が書いた日本農業の特徴は、確かにうなずけるものも多いように思います。もちろん、この特徴が不変であるかどうかも議論の分かれるところでしょう。

4。食料消費の現代的課題(草刈仁先生)

草刈先生の近年の研究を一つにまとめて一貫した議論にした、という感じ。
要点としては、2つ。
国産農産物の増加要因は高齢世帯の健康志向と賃金率の停滞傾向にあり、マイナス要素として人口減少、世帯規模縮小、食生活の外部化がある。計量分析の結果、減少傾向の方が大きい。消費には景気の影響が大きい。食農教育・地産地消・地域ブランド化の効果は、二人以上世帯の高年齢世帯に限定的に作用するだけだ。
家計と農業の連携が必要。内食(家庭での調理)の生産効率上昇(に伴う国産農産物の派生需要曲線シフト)と、供給サイドの生産効率向上によって余剰が増えるはず、という余剰分析。


それぞれ勝手な感想を書くと、

一つ目の計量分析の結果は、現在の農業経営体個々のマーケティング戦略では国産農産物の需要増加につながらない、という事を示しているのだろうか?だとしたらかなり深刻な問いかけかも。一方で高齢化率は上昇しているし、若年層の国産農産物への冷淡さは、可処分所得や余暇時間とかと関係していそうな気がするので一概に若い人に興味がないとも言えないような気がしたのだけれども・・・。この辺は先生が発表された個々の論文に当たるべきか。

内食の衰えの例として、調理技術の低下が挙げられていたが、まあこれは主婦の減少とか調理に欠ける時間の問題という気がするので技能と関係するのかはよくわからなかったが、食の外部化が国産農産物需要のネックというのは面白く、かつ重要な視点かも?でも解決策がわからないなこれは。
大学受験に調理実習入れるとか・・・弁当男子に単位出すとか・・・。

5.現代農政システムの制約要因と展望(荘林幹太郎先生)

政策システムを、「政策の決定・転換に影響を与える、さまざまな主体の相互作用のシステム」と定義し、「主体・ルール・場の3つの要素と、そこから出来上がる独特の構造」を分析することで、農業政策を論じる。特に、農業政策の決定に作用するサブシステムとしての国際貿易政策・財政・地方分権政策との相互作用を論じていた。

議論のフレームの提案自体が新しい、という感じ。とくにこうしたシステムの存在を明示的に意識することで、政策目的同士のトレードオフ・漸進的政策変化・政策形成のプロセス(トレーサビリティ)を分析できるようにしたい、という主張はとても魅力的と思いました。

地方自治政策と農政のサブシステム連関の事例として出てきた「農地・水・環境保全向上対策の実施過程から県という組織が排除されている」という例は、現場の水利の話では確かに出てくる。中規模・大規模な水路だと、集落と県・改良区との連携齟齬が存在しているという話を今回報告予定だった研究で紹介するつもりだったので、こうした制度的欠陥として問題提起できるのかと思った。

6.我が国農業構造の到達点と展望(福田晋先生)

むらを基盤とする農業構造のもとで、また、政策による保護の度合いの変化の応じて、水田・畑作(野菜作)・畜産の生産構造はどのように変化したか。生産調整とともに、生産構造の変化が止まってしまった水田農業、水田転作とも呼応しつつ、もっとも競争的に成長してきた野菜作、貿易政策の変更に対応しつつ財政への依存を高める畜産、さらに下部構造としてのむらから経営体への変化をまとめて論じていた。生産フローの図解など、これは論文化されたら大学の講義で使えそうなスマートな農業構造の変化の記述だった。

それから、4名の先生方+座長のうち3名が言及していた、農大岩本先生の「戦後農政の枠組みと「新基本法」」(『農業経済研究』71巻3号)は、米政策の歴史を抑える必読論文だということがよくわかった。

後、討論が聞けなかったので、この各論点がどのように交わっていったのか、は農経研究81巻の発行待ちです。

2011年4月15日金曜日

書籍紹介『書をもって農村へ行こう』

表題の本が早稲田大学出版会から出ました。




書を持って農村へ行こう―早稲田発・農山体験実習のすすめ


私も4章と7章を執筆しています。また、編集の会議にも当初から出ておりましたので、ある程度どう意図を持った本なのか、どんな人に読んでもらいたい本なのか、と言った点を議論してきました。

また、書籍そのものがオムニバス型の本でもあり、編著者のまとめとは若干異なるかもしれない一執筆者の意見も記しておくと、もしかしてこの本に興味を持ってくれた方には参考になるかもしれないと思いました。

そこで、やや長いですが、私なりのこの本の紹介をここに書いておこうと思います。



まず、何より最初に、この本に書けなかったことがあります。

それは、今回の東北関東大震災の被害者の方たちへのお見舞いです。

この本で取り上げている岩手県田野畑村が、まさに津波の直撃を受けました。私は田野畑には行ったことがないので、地域の地理に詳しいわけではありません。ただ、新聞で2,000戸あまりの家々が流されたと、その報道で知るばかりです。
追記の形で書かれておりますが、本の印刷所行きの日が、まさに震災の当日でありました。農村に刻まれた多くの想い出の記憶が、現実の世界では、逆らえない力によって奪い去られてしまった。それは悲しく、悔しいことです。

今は、地域の人たちが、少しでも元の生活に戻れるよう、私たちにできる支援を考える事が大切だと思います。田野畑を取り上げた2章にあるように、早稲田大学の学生がこの村に入ったのは、火災で失われた山林を蘇らせるため、村の人たちとともに山村を育てていくためでした。爾来50年、この悲劇的地震を受けてもなお、私たちと田野畑とのつながりは、そのモチベーションの延長にあると思います。
今、学生が突然田野畑にはいる事は難しいでしょう。しかし、かならず、あの村に学生が戻り、住民の方と語り合う時が戻ってくると信じたいと思います。



それでは、この本について、3点の紹介をしようと思います。まず、1つ目は、この本を出そうと言う動機、目的です。2つ目は、私の担当した二つの章について、です。それから蛇足を少し書きます。

1つ目から行きます。この本を出そうと言う動機についてです。これは明確に、2点あります。

  1. 農村に関心のある学生、国内でのボランティアに関心のある学生に、農業をテーマにした講義・サークルやボランティア活動の存在を伝える
  2. 早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンター(以下WAVOC)を通じた活動の一環として、農村で行われてきた学生と農村との往還の記録を通じて、その仕組みを公開する
1は、いわば参加してもらう対象としての学生にとっての「読みどころ」です。本の中では、新潟県松代・岩手県田野畑・山形県高畠・山形県田代・福井県三国・千葉県南房総市(旧三芳村)などの農村が至る所に登場します。できるだけ実際の活動がリアルに伝わるよう、写真やドキュメントタッチの描写を心がけました。

学生に限らず、日本の農村に興味のある方が、この本を使って(書を以て)、農村を体験して頂けると書き手の側としてはうれしいです。もちろん、物足りないはずですので、そう思ったら、実際に現地に乗り込んでください(書を持って・・・でも重いから置いていってもいいです)

2は、学生を送り出している側の「いいわけ仕掛け」です。これは、学生さんと言うより、こうした都市農村交流にかかわっているオトナの皆様(行政・大学などなど)に読んで頂ける事を想定しています。制度的な部分の紹介は6章「農山村とフィールド教育」で説明されています。

主な実習地である田野畑・高畠・田代・三国をタイプ別に分類しています。どんな地域で、どんな活動の特徴があるのか。そうしたバラバラな活動を、座学の授業でどうやって集約していくのか、説明しています。
また、こうした仕組みに対して「学生はどんな反応を示すのか?」も当然気になる所だと思います。それは7章で説明しています。



次に、わたしが書きました二つの章について、詳しく書いておこうと思います。


4章で取り上げた、山形県寒河江市田代地区は、本当に日本のどこにでもある山間集落です。だからこそ、「なぜ、このムラは、12年も大学生を受け入れ続けているのか?」ということに焦点をあてました。始まりの動機、受け入れ組織の努力、そして実習の中身。最後に、簡単な今後の持続可能性にも考察を広げています。

こんな村、なかなかない。確かにそうだと思います。でも、実は、田代が持っている要素は、日本のいろいろなところに眠っているものでもあると思います。



7章は、学生側からの視点です。農山村体験実習という講義を受けた、学生たちのその後に焦点をあてています。どちらかというと、私自身も含めた「回顧録」でもあります。

また、十分に触れることができなかったのですが、早稲田大学ボランティアセンターで提供している、千葉県南房総市旧三芳村での農業ボランティアにも少し触れました。詳しくはこちら このプロジェクトは、立ち上げのときからずっと私がかかわり、引率もこなしてきたプロジェクトです。今も綿々と続く、ため池整備と有機農業のお手伝い。これからも続いて行ってもらいたいと思います。
個性的な関係者の皆様のますますのご健康をお祈りしています。




蛇足ながら、私がこの執筆に参加したモチベーションは、7章の座談会にあります。

私は、都市農村交流の視点とともに、7章で取り上げた農楽塾を大学の間中やっていました。このメンバーで、自分たちのやろうとした事、そして、その結果を、どうにか形にして残しておきたい、そんな思いがありました。今回の話が来て、まず最初に思ったのは、「農楽塾の誰を呼ぼうかな」でした。本当はもっと参加してもらいたかった人がいっぱいいます。ただ、歴史を振り返る上で外せないメンバーに絞って登場してもらうことになりました。

おかげで、「農村に触れた学生たちのその後」、そして、「自分で農業をやろうとする学生の苦闘」がをうまく記録できたと思います。

座談会に集まってくれた、4人の友人に御礼を言います。ありがとう。

みなさん、かけがえのない、また、誰にもはばかることのない、本当に素晴らしい友人たちです。

農楽塾は立ち上げの経緯もあってか非常に仲が良くて、卒業後5年近く経つのに、いまだに3カ月に一度は10人以上集まって旅行したり飲みに行ったりしています。この座談会の日は、実は早稲田祭の日でした。座談会に行く前、早稲田王決定戦を見て校歌と紺碧を歌いました。終了後、馬場で待機していた他のメンバーと居酒屋にて飲みました。4人の言葉は、彼ら全ての声の代表だと思います。かけがえのない、生涯の友人たちとともに、この本が残せることを、私は密かに、一番の誇りとしています。




私としては、この本はいろいろな実習形態を通じた、早稲田の農村実習の紹介であり、学生たちと、地域の農家さんたちとの往還の記録であると思っています。それは、単なる内輪の振り返りだけではなく、多くの人たちに何かしらの「気づき」をおすそ分けできると思っております。そうした「気づき」が、やがて農村へ目を向ける大きな力になっていくことを願っています。


2011年1月10日月曜日

正月行事の備忘録

実家に帰省してきました。(追記:念のため、次の写真は駅前のバス停です。私の実家は民家ですのでもうちょっと先の写真を見てください)
駅前のバス亭、懐かしいが相変わらずのひっそりとしたたたずまいです。
ちなみに、鍵が締まっていて中には入れない・・・。年末だからでしょうか。この通りは伊予北条駅から鹿島まで続く目抜き通りです。といっても、鹿島と地域の鎮守である国津彦命・櫛玉姫命神社への参道と駅は少しずれているので、明治位に開けた道なのでしょう。12個400円のたこ焼きがうまい。


さて、今年の正月は母が入院、妻が身重ということで、私は一人正月と相成りました。
仕方がないので、墓参と正月準備を聞き覚えで行ってみました。母の言うとおりにしてみたので、わりと地元の習俗を伝えているかと思いますが、いかんせん超簡略適当になっております。

まず、我が家では10年ほど前に自宅でお餅を搗く習慣が途絶えました。もちつき機は今も健在ですが、丸める人員が居なくなったのです。私の祖父はとてもうまかったのですが。ちなみに、今年は妻の実家でもちつきをしてきました。関東では本当にお餅を丸めないのですね。ま、搗きたてのお餅は何でもうまいですが。

さて、そのお餅、我が家では大鏡餅を2か所、小さい鏡モチを6か所にお供えします。
大きい鏡モチの一つは「神棚」、もう一つは「お寺」に納めます。
いつのものかは分からない大きな箱膳に、米を盛り、ウラジロを二枚引き、鏡餅を載せます。サトウの鏡餅さん、いつもお世話になっております。

6か所の小さい鏡モチを順に置いていきます。まず、大黒様(我が家では4畳半の仏間にあります。大黒柱の通った部屋にあるのは偶然?)

つぎに台所の荒神様。

台所の荒神様は、祖母が、「ものが無くなるとお豆腐を備えるように」と言っていました。子供のころは本当にお供えするとものが出てくるので信じていたのですが、あれは無くした本人(祖母)が思い出して発見していただけだったのかも。
次に、山の神様。これは本当はこの山(明治の合併まで、寺谷村の祇園社が鎮座していた)のてっぺんの祠に持って行くのですが、


面倒なので我が家のお供え場所に安置。


井戸の神様

それから、家の南北にあるオジノッサン(「御地主様」かな?)。南のオジノッサンは石の塔ですが平成15年頃にあった芸豫地震で家の下に落っこちて割れてしまいました。。北のオジノッサンは安心のコンクリート製です・・。

昔は月の数だけ小さい鏡モチを作っていました。閏月がある時は13個、結構まじめにやっていたような気がします。残りのお餅はどうしていたんだろう?離れとか、他の場所にも飾っていたと思うのですが、昭和19年生れの母にもそこは伝承されていません。祖父母にもっとちゃんと聞いておけばよかったと思いますが、後悔先に立たず。

お餅をビニールかぶせたままにしている理由は、最近イノシシ等の話を聞くから、というより、回収して食べるためです。

神棚のお札を整理し、お床に花を飾ります。

最後に、大鏡餅をお寺に納め、墓参り。

光徳院は嘉元元年(1309)後醍醐天皇勅願所として尊竜上人が再興、のち大永兵火(1525)にて前章、仏像のみ貞観期(810‐823)のものを伝える。本尊阿弥陀如来は国津比古命神社の本地仏として慶応年間まで祀られた、と説明にあります。
江戸期の再興者、松山藩家老の豊島茂太夫が、石神井豊島氏の末裔だったら、愛媛→石神井の移民としては縁があるんだけど、まあそううまくはいかないでしょう(笑)

写真を撮り忘れましたが、高田、いや北条では、玄関の飾りに杓文字型のお飾りを飾ります。これも関東では見かけないのでびっくりした点でした。我が家の締め飾りは親戚の80歳のお爺さんに作ってもらっています。縄くらいは何とか綯えるので、いつか教えてもらって作りたいなあ。


六地蔵さんを経て、いよいよ墓参。曾祖父・祖父・父は別として、以前のブログに書いた、我が家のルーツ西原幸太郎の墓です。


明治の建立ですが、周囲には天明・文政・天保などの墓が並べてあります。「●●童子」が多いから夭折した子供のお墓なのでしょう。改めて確認すると、墓石の建立年と、家の位牌の過去帳の没年は完全に一致します。位牌に院号が追加されている点を含めて、墓石を基に位牌が作られたのかなとも思いますが、一方で墓石が残っていない人もいるので、位牌の根拠は言い伝えや過去帳なのかもしれません。
 天明年間の墓石が、我が家でさかのぼれる最古のご先祖、幸七さま(天明8年没)です。とりあえずここからは実在人物なんだろうなと確認できます。

 墓参も終えて、最後に高田から見た高縄山と鹿島。この祠はかつて菅原道真公が休んでいったと祖母が言っていたがさすがに嘘だろう。ただ、光徳院に勅使が来る事があったそう(この神主さんのブログの充実はすごい。こんな地元を紹介してくれる所があるとは感激です)なので、そっちの関係かも。



こうして迎えた平成辛卯年。家族も増える事だし、良い年になるといいなと思います。

2010年10月22日金曜日

フェリペ神父の帰天

http://www.aiko.ed.jp/school_news/2010/10/post-55.html

私が卒業したある学校の元理事長が亡くなりました。

いやしくもカトリックの神父様に対してきちんと「帰天」の表記をしないあたり、この学校が受験のための教育にすっかり堕している様が受け取れます。

・・・などと亡くなった方の話をする前に失礼なことを書くべきではありませんね。いい学校ですよ、ここは。



フェリペ神父はたしか来日されたのは東京五輪の頃だと仰っていたように記憶しています。
私なぞより、よほど「日本滞在歴」の長い方でした。

非常に巨漢でした。ある日の倫理の授業で、神父様が歩くたびに教壇がきしみ、学生はハラハラして今までにない集中力を見せたことがありました。講義直後、クラス全員が熱く授業について語りました。あれはフェリペが壊したのか、と。あのように倫理の授業について熱く語った事は15年経った今でも二度とありません。何についての授業だったかは忘れましたが。



また、とにかくお茶目な方でした。
「なぜこの学校にはプールが無いのですか?」「プールを作ると、一年入れる温水プールにしないといけません」

「なぜこの学校には野球部がないのですか?」「野球部を作ると、応援部を作らないといけません。応援部を作ると、チアガールが要ります。チアを作るには、共学にしないといけません」

どこまで真面目に言っていたのか、スペイン生まれの神父に聞くのも野暮というものですが、私の学校は、私が卒業した年に共学になりました。さらに、その後の「授業未履修問題」のごたごたで、色々と関係の皆様はご苦労されたようです。



私がフェリペ神父様と再会する機会を得たのは、大学3年の北条教会でした。母がカトリックの信者であるためです。私は、できたばかりの彼女(今の妻)を連れて、二人でクリスマスミサに車いすの母を連れて行きました。神父様にご挨拶をしました。もちろん、個人的に親しくしていたわけではありません。ですが、卒業生であることを知ると、非常に喜んでくださいました。

昨年、私たちは北条教会で結婚のミサを(非信徒なので、ご厚意で)あげさせていただきました。教導してくださった神父様から、フェリペ神父が体調が悪いという話をお伺いしたのはその時です。
こんなに早く天に召されるとは思ってもいませんでした。



私がこの学校に入学した時、母の知人でもあり、寮長でもあった、ベレー帽の似合うバスク出身のアンドレス神父。80歳を超えるお年で校長を務め、なお柔道部の指導をしていた門屋先生。今や皆さん天国に行かれました。

私が12歳のころお会いし、初めて目にした時、どの方を目にして感動したことが一つあります。それは、何事にも動じない強い意志です。

門屋先生は超人としか言いようのない方でした(病気で入院されて、握力を測ったら両手とも30を超えたらしい。当時寮内で聞いた有名な話)。引退されてからも良く校内を散歩されていて、休日などご挨拶すると必ず質問してくださいました。そして、最後の教え子である私たちの学年が卒業するまで、欠かさず卒業式に来てくださいました。

アンドレス神父は、個人的にも何度かお会いしたことがあり、私はおかげでホームシックにもならずに寮生活を過ごしました。最期の時、自分にこの試練を与えて下さった神様に感謝する、そう言って亡くなられたと聞きました(もう10年くらい前だと思うが)。



本当に、皆さん勁い意思を持たれた方たちでした。それは、これが信仰の力なんだろうと今の私は漠然と思っています。



私たちが卒業した2002年2月1日、私たちの卒業式で、フェリペ神父様は、私たちのためにミサを挙げてくださいました。香を振り、私たち卒業生の幸せを神様に祈ってくださいました。
アルバムに書いてくださった言葉は、「近くの友人は、遠くの親戚に勝る」。
全くの他人だった私たち寮生が、共に暮らし、友人になり、また同じ祈りのもとに分かれて行く。
フェリペ神父は、そんな様を、いつものように、にこやかに眺めておられました。

私たちを祝福して下さった方が、自分の信じ、愛する方の所にお戻りになった。
もしかしたら、悲しむべきことでは必ずしもないのかもしれません。
しかし、私たちを見守ってくださった方を送る私たちには、やはり大きな過去との別れの一つなのです。魂の安らかならんことをお祈りしつつ、私たちは私たちの道を歩んでいこうと思います。

2010年4月23日金曜日

Insemination

Two week before last (Apr. 10),  My wife and I went to her home. Her home is in Chiba prefecture. 
It was clear day. We started insemination of the corn.  The name of variety is "Gold Rush". I want to see those corn get a good crop, however, this year, It's not blessed with good weather. 

The field scale is 25a. we made two duo. One  sets seed, then another cover with soil.

Next, we  poured water on baby rice plants.Many Japanese farmers buy it from JA, because of not only homogeneous, but also part-time farmers. In any case, it require great care!!

I explain the procedure. At the beginning,  we water the cover. The cover composed of three papers, watering prevent it from blowing away.

   



Next, we watered the baby rice plants. They planted two week ago.



At the end, we put manure on rice.



Total time required is about three hours. My parents in-laws do every day until May. And, this activity continues long long time from ancestors' age.  A wooden bucket is one of the trace.



2010年4月21日水曜日

ある地方都市の繁華街ー本町・辻町、スーパー

人口三万人程度の町というのは、世界的に見れば都市の内に入るのだろうか。私は比較文化論とか詳しくは無いから、これがどういう程度のレベルにあるかはわからない。ただ、この町は、つい5年前までは確かにひとつの町であった。


中心街-北条本町-は江戸時代以来の宿場町である。左側に見える「冨屋」というのは、脚本家早坂暁さんの生まれた家で、町の看板「花へんろの町」というのは、早坂さんがそのころの北条の思い出をドラマにしたもの(桃井かおりがお母さん役だったような)。目の前を流れる川は明星川で、秋になると、秋祭りの舞台になります。北条の火事祭りはとにかくみこしを壊したり投げたりする荒い祭りですが、私の住む正岡地区ではおみこしを神社に落っことすのに対して、ここ北条の人たちはこの川に落っことします。


本町を見ていると、この町が松山のコピー、そして、東京の孫コピーであることがわかります。玉枝に銀行、一六本舗、おもちゃ屋さん。これらの店舗はすべて松山の会社であり、北条の、もっと言えばこの町にしかないお店と言うのは冨屋くらいでしょうか。


ここを出て、辻町商店街に入ると、勉強堂という和菓子屋さんがあります。ここは北条しかないかな?






北条にしかない個人経営の店、が無いわけではありません。たとえば八百屋さん・散髪屋さん、本屋さん・・・。私の記憶では、そうした店がたくさんあったのが辻町商店街でした。私はこの写真にも写っているあるお家でピアノを教えてもらっていました。レッスン料は家で作った野菜+500円。


しかし、改めてみた辻町は、ずいぶん変わっていました。まず、ピアノの本を買っていた本屋さんは駅の近くに移転。八百屋さんは無くなり、散髪屋さんだけが残っていました。火曜日は休みらしく、みんな休業中です。手前にあるのは、私が子供のころから「なぞの店」だったマッカーサーインベーダーセンターの看板。ついマッカーサーってつけちゃう辺り、日本人の記憶もすさまじいものがあります。

最後に、辻町の入り口にあるスーパー。ここは昔「フジ」というスーパーでした。三階には食堂とアイスを売っている売店があり、休日亡父に来るまでつれてきてもらったものです。やがて、三階はゲームセンターになり、今や「立ち入り禁止」となりました。二階の本屋さんも一回に移された後、消滅。今はデパートそのものが「安売りセンター」と位置づけられています。お店の張り紙によると、流通と人件費の徹底削減で安売りを実現しているそうです。僕の小学校の同級生のお母さんもここの肉屋で働いていたのですが、今は見かけなくなりました。どうしているのかなあ。。

この変化は、景気の低迷、人口減少、そしてライバルスーパーの参入など色々あります。

しかし、そんな悲しい歴史をたどるこのスーパーですが、魚の仕入れは昔と同じ。すぐそばの北条港直送の新鮮な魚がそのまんま売られます。




むかしはお願いしたらその場でおろしてくれていたのですが、今はどうなんだろ。ちなみにこのカレイ、まだ動いています(写真だとわからないか・・とにかくピチピチ跳ねてました)



私の住む正岡地区は、この北条に1955年ころ合併されました(昭和の大合併)。神社の統合などコミュニティそのものを大きく変えた明治の大合併や、行政効率化を目的として、地域の生活実態以上に広域な合併が強行される例もあった平成に大合併に比べ、中学校区レベルの合併だった昭和の合併はあまり地域的影響を感じさせません。愛媛県は私が小学校のころは70誓い自治体が残され、昭和の合併に失敗した県、という汚名がかけられていました。まあ逆に言えば、その汚名を旗印に20程度まで市町村を統廃合したのが現知事のもっとも大きな業績となっています。

私たち旧正岡村住民はもともと北条に買い物に行っていたし、中学校に入れば、「町の子=北条住民」と一緒の中学校になったものです。ただそれは、逆に北条市が合併して消滅したことに、ほとんど哀愁を感じさせませんでした。私自身、北条の町は買い物に行く町であり、松山市内とさほど変わらない位置づけでした。そして、松山市内は、比較にならないほど、北条より都会なのです。




旧北条市役所(松山市役所北条支所)には、「北条市の歩み」という碑があります。誇らしげに書かれる歩みは、道路、公共施設の整備の歴史でもあります。皮肉なことに、この道路が松山市内への利便性を確保し、北条の町の存在意義を低くしたのかもしれません。



大学の桜は開き始めました。この聖カタリナ大学とカタリナ修道女会を始め、北条の町には、まだまだ町を必要とする多くの人たちがいます。そして、町を愛し、われわれよりちょっとしゃれっ気の多い「町の子」たちがいます。



町の中に、小さなお堂や神社があります。今日も、黙々とその周りを草抜きしている奥さんがいました。桜がきれいです。名所めぐりもいいけれど、自分の町にこんなスポットがあったら、ついその前を通りたくなるものです。この町に住む人の、町を行きかう人への愛情が感じられます。これこそ、宿場町の誇りなんじゃないかと思ったり。



北条市内は、他地域の人の買い物センターとしての役割を終え、住民の憩いと、われわれ山側の住民の一休みの場に変貌しようとしています。この町の緩やかなリタイアが、幸のある第二の人生への転換でありますように。

2010年2月26日金曜日

農山漁村の資源活用フォーラム

・・・というものが2月23日にありました。
見に行ったわけではなく、分科会の講師を任されました。

駆け出し貧乏人の私にとっては謝礼が!名誉なことで、非常にありがたい経験でした。

内容についてここにUPしたいと思っているのですが、4月10日の学会報告の内容を含んでいるので
資料をそのまんま上げるのはもう少し先にさせてください。

内容は3章建て、5つのパートでした。順に

①社会科学者は農村で何をしているのか

②-1 聞き取り調査から注目する、土地改良区という組織の仕組み

②-2 データを用いた、農家のネットワークの分析

③-1 水路の情報、分析結果を伝えるツールとしてのGIS(geographic Information System)の使い方

③-2 データを使ってもらい、「住民自身が水路の使い方を決める」ワークショップの方法

大体こんな感じです。


反応ですが、まず一番多かったのは「うちの土地改良区にはそんなデータはない」といった文政手法への否定的な意見。ただ、これはおそらく誤解だろうと思います。というのも、僕が使ったデータは、土地改良区が賦課金を徴収するために使っている資料に書いてあるデータなので、「お金を集めている土地改良区なら絶対あるデータ」と言って問題ない。当然、お金を集めていない(もしくは、集めきれていなくても、請求を出していない)土地改良区は無いはずですからね・・・。
この点は、つまり私のスライドに「分析データの詳細」が説明されていなかったことから来た誤解だと思われます。自分の不備であり、反省点です。


次に多かったのは「分析した場所ではそうなんでしょうが、うちの土地改良区ではね・・・」という反応。これは確かに批判として一理ある。ある国営規模の土地改良区さんの管内で、私の分析がしらみつぶしにできるか、といわれると自分も自信はない。もうすこし手法が洗練されたら別かもしれないけれど。

最後に、積極的な内容の解釈への質問。特に印象に残った質問が二つ。


一つ目は「地域用水が農業用水に変わった」というが、地域用水としての側面と農業用水としての側面をどのように分けているのか、という質問。これは、私の分析では維持管理の範囲が「農家は農地部分、非農家は住宅付近」という現状から表現したものです。住民=農家だった時代には、この変化は「地域用水=農業用水」の構図を変えていないので問題ないのですが、現在起っているのは非農家(元農家)の拡大です。彼らが「自分の住んでる所だけで済ませたい」と言えば、残った農家の負担はどんどん拡大します。用水が「農業用水」であれば、そういった農家の負担増に進む可能性は大きいのではないかと考えます。

二つ目は、「維持管理の負担を耕作者だけで背負うのはやはり無理だという認識か」という問いです。私の対象地域では、下部組織が非農家や工場に面積割の賦課金を掛けていたり、所有者が原則組合員になっているので、耕作者に賦課金や管理活動が集中するという状況にはないようですが、多くの地域ではそうではないのだなと察せられます。
賦課金の徴収率についても、私の対象地域はほぼ100%徴収を達成していて、その原動力と思われる区単位徴収・奨励金(還付金)システムに質問が相次いでいました。

もう少し分析が進んで、「維持管理行動や合意形成にプラスの要素は何か」といったことを具体的に言えると良かったのでしょうが、まだもう少し時間がかかりそうです。
そういう意味でも、今回の報告は、改めて土地改良区というものの多様性と複雑さを思い知らされることになりました。
まだまだ修行が足りませんね。

ちなみに、打ち上げで「なんでこの時期にこのイベント?」と聞いたところ、コーディネーターが「平成22年2月22日なんて二度とないタイミングじゃないか!」ということで決まったらしい。なんじゃそりゃ・・・。しかし楽しいイベントでした。ご参加いただいたみなさん、スタッフの県職員の方々、パネリストの先生方、そして、私の分科会を聞きに来ていただいた35名の皆さまに厚く御礼申し上げます。

中山間地域フォーラム2021年度シンポジウムのお知らせ

 私が所属するNPO法人中山間地域フォーラムのシンポジウムが7月10日(土)にオンラインで開催されます。 タイトルは「 新たな農村政策を問う ~農村発イノベーションは広がるか 」です。  基本計画が新しくなり、新しい農村政策に関する有識者の提言もなされました。現場の新しい活動と、...