2021年6月25日金曜日

中山間地域フォーラム2021年度シンポジウムのお知らせ

 私が所属するNPO法人中山間地域フォーラムのシンポジウムが7月10日(土)にオンラインで開催されます。

タイトルは「新たな農村政策を問う ~農村発イノベーションは広がるか」です。

 基本計画が新しくなり、新しい農村政策に関する有識者の提言もなされました。現場の新しい活動と、政策的な方向性の双方を見通せるイベントを通じて、「新しい農村政策」を考えるきっかけになればと思います。

日時 2021年7月10日(土)13:30~16:30 開場13:00

Zoomミーティング(定員250名) 参加費無料

リンク先のホームページから、お申込みいただけます。

https://www.chusankan-f.org/

 オンラインにしたら、地方の方の申し込みがすごく増えているそうです。移動のコストがない方法は悪くないかもしれませんね。でも直接お会いしてお話ししたい気持ちもありますが。

是非ご覧いただければ幸いです。


(2年ぶりで、どうやって投稿するのかわからなかった・・・)

2019年3月31日日曜日

異動します

平成31年4月1日より、早稲田大学人間科学学術院から、早稲田大学研究院に異動します。

正式な名称は、「早稲田大学地域・地域間研究機構次席研究員/研究院講師」とのことで、またも舌をかみそうな名称に...

今回は寄附講座の運営と受託研究への従事が主たる職務になります。学術院の教員時代と比べると教育業務がかなり減る一方で、安住できるほど長く努められるタイプの仕事ではないので、様々なご厚意で就活の延長戦をさせていただいているという感じです。

人間科学学術院では、いわゆる必修の基礎科目を担当させて頂きました。正直言って結構負担感の大きい業務でしたが、統計学に関する基礎的な知識、そして何より「教え方」に関する様々な方法論を勉強する機会を頂けたというのが財産になりました。アクティブ・ラーニングによる講義の運営は、そうした講義の経験がある先生やコンテンツの助けがなければ中々習熟できなかったでしょう。今後、どこかで役立てられる機会があると良いなと思っています。まあ、自分のゼミが持てるような機会があればね。。

他にも、同僚の先生方と様々な共同研究について話し合ったのも貴重な機会でした。特に気候変動の作物モデルを発展させて生産額の推定を行う研究は、一応複数の学会で報告する段階までは進めました。後は投稿・掲載となれば一番良いのですが!これは何とか次年度早々に片を付けたいところです。

博士取得後6年目にしてついに個室をゲットした、というのが今のところの新生活一番の喜びです。これでブツブツ言っても誰にも迷惑がかからない!ありがたいことです。

それから、12年ぶりの早稲田キャンパス。まあ、年に何回も訪れていたので「懐かしい」と言うほどでもないのですが、そうは言っても三品で中カツを食べたり応援団やサンバの音楽を聴くと、なんとも懐かしい気分になります。
 初心に戻って、研究活動を加速していきたいなと思います。

2019年2月26日火曜日

笑而不答心自閑


問余何意棲碧山
笑而不答心自閑
桃花流水杳然去
別有天地非人間

20年にわたり、早稲田大学の学生を受け入れてくれている農村があります。それは山形県寒河江市田代集落です。
その田代集落の前区長である佐藤昭右衛門さんが亡くなられました。

私は初めて田代集落に伺った2003年から15年にわたり、昭右衛門さんのご活躍を拝見しておりました。
学生として、OBとして、引率教員として。ただの田代好きとして。

こちらの無茶な要求にも、「困ったなあ」という笑顔をして、そして工夫を凝らして私たちを受け入れてくれた、そんな昭右衛門さんの顔が忘れられません。
役場での学生の発表、早稲田大学への山形県出店の出店、ここぞという場面には常に昭右衛門さんの笑顔がありました。

私が最後にお会いしたのは昨年の8月、早稲田大学学生を受け入れる田代集落の組織『葉山村塾」の設立20周年記念式典でした。
「手術をした」「まあ、どこまでもつかね」といった話を伺ったことは覚えています。
私は愚かにも、それを術後の弱気と受け取ってしまいました。
また、次の夏に会えると、そう思ってしまいました。

人の覚悟を読み違えるほど人生の不覚はありません。

葬儀に参列し、弔辞を述べる人たちが一様に述べる「最期のお姿」が「仕事をしていた」お姿であったという事に改めて驚き、敬服しました。
昭右衛門さんはいつも笑顔で、いつも仕事をしておられました。
いつも、誰かのために、何かをしようと、そう自らを決めておられる方でした。
本当に最期まで、そのままだったのでしょう。

もう一度、せめてお別れに一目お会いしたかった。

決して多くを語る方ではなかったかもしれません。しかし、語るまでもなく、その笑顔には、桃花流水の別天地としての、ふるさと田代の姿があったように思います。
「笑ひて答へず、心自ら閑なり」。
その生涯をかけたふるさとに、多くの笑顔が生まれる場所が残されました。

私はまた、昭右衛門さんに会いに、この村へ行くのです。

2017年6月19日月曜日

中山間地域フォーラム シンポジウムのご案内

今年度から、特定非営利活動団体  中山間地域フォーラムの企画委員を務めることになりました。会長が恩師というご縁で参加させていただいたのですが、他の委員の先生方も多くは知り合いまたは知り合いの知り合いレベルの人ばかりということで、心安く仕事させていただいております。

今回は、そんな中山間地域フォーラムの第11回シンポジウムのご案内です。

中山間地域フォーラム設立11周年記念シンポジウム

農山村再生と“若者力”―農業の新たな位置づけ-」

【日時】   201(土)130分~1750分 

【会場】   東京大学弥生講堂一条ホール

              (東京都文京区弥生1-1-1、地下鉄南北線東大前駅から1分)

 詳しくはホームページ(https://www.chusankan-f.org/)をご覧いただければと思います。

近年、「田園回帰」のキーワードの下、農村に暮らす若者やその生活が取り上げられるようになってきました。そうした農村生活のファッション化の流れの中で、逆に農村の「リアル」が美化されすぎたり、恐れられたりしていないだろうか?
 現実に暮らしている若者は何をしているのだろう?あるいは、農村に若者を送り出すツールとしての役割を担ってきた地域づくり協力隊はどんな役割を担っているのだろう?・・・といったテーマを取りあげようという企画です。

現在の「攻めの農業」政策や成功した大規模農業経営体の経験談が「儲かる農業」の理想像を示す一方で、現実にはもう少し幅の広い「農業の使い方」があるようです。
 過去よく見られたような「儲からないけど尊い仕事」論とも違う、でも「世界を股にかけるビジネスマン農業」ともちょっと違う。
 荒削りな言い方をすれば、今回のパネリストの方たちは「条件はよくなくても、うまいことやってみせる」農業の姿、という感じではないかと(私は個人的に)思っております。

そして、そうした姿は、私たち自身の生活と変わらない、等身大の農業者の姿なのではないかと思います。

会場では、パネリストと直接意見交換できる時間や、シンポジウムに参加される農村問題の専門家の方たちも交えた懇親の時間を設けてあります。「ちょっと自分の意見を聞いて欲しい」という方も大歓迎、「初めて農村の話を聞きに行くので、イメージしやすいところだけ聞きたい」という方も大歓迎です。

そして、事前の申し込みを、是非お願いいたします。(会場の都合です)

会場である東大一条ホールは、国産木材で作られた、とても開放的なホールです。入り口付近には忠犬ハチ公像も皆さんをお待ちしております。

7月最初の土曜日、大勢様のお越しをお待ちしております。

なお、今回のイベントには日本農業新聞様との共催企画となりました。多くのご支援をいただいておりますこと、改めて御礼申し上げます。
日本農業新聞様の「若者力キャンペーン」チームは、日本各地の若い農業者を取り上げる注目の企画です。熱いfacebookページは必見です。

2016年8月26日金曜日

最近読んだ本:吉田修『自民党農政史〜農林族の群像〜』



とある研究プロジェクトに参加した関係で、農業政策のレビューを行うことになった。

 制度・法律の成り立ち、予算額・シェアの変遷、政策に対するインパクト評価、あるいは今後の制度改正への道筋や論点の提示、と様々な先生方の議論が展開される楽しい研究会なのですが、そこで一つ、政治的アクターのbehaviourについても調べると面白いかな、と思い立ったわけです。

とはいえ、新聞記者でも政策関連の会議に出たこともない人間には、分析どころか「アクターはどう振舞っているのか?」のイメージすら沸かないこの領域。
 研究者の代わりに、丁寧な記録を残してくれている本がありました。

著者の吉田氏は1978年に自民党本部勤務になられ、その後2012年までお勤めになったこの分野の裏方中の親方、といった方のようです。
 「政治家は業績録を残さねばならない」というのは『ローマ人の物語』において塩野七生女史がよく言われておられましたが、合議主義の日本においては、インナーの合意や会議での”論調”が意思決定を大きく左右します。

 典型的な例が、福田〜大平の総理2年禅譲説、でしょうか。大平側近だった伊藤氏が『自民党戦国史』なんて大著をモノしたせいで、禅譲が口頭で存在した、いや文書もあった、という説から「いやいやそんなものに有効性はない」という説まで、全てがリアリティーとともに立場の違う当事者から証言が残っています。この場合、当事者だけの議論では、意思決定の客観的な判断が難しいように思います。

 その点、吉田氏は発言者の名前を残す形で詳細なメモを残されています。また、インナーにせよ非公式会談にせよ、直筆の合意文書を大量に資料としてアップして頂けているので、その点も説得力が高いように感じます。
 歴ヲタにして元政治学科の私としては、伊藤『自民党戦国史』とか戸川猪佐武『小説吉田学校』→さいとうたかを『大宰相』とかが最大の娯楽小説でしたので、福田赳夫・大平正芳・伊藤正義に田中六助、倉石忠雄とかの直筆を見るともう大興奮なわけです。
 あと、檜垣徳太郎さんとか渡部伍良食糧庁長官とか、郷土の偉人が出てくるのも面白い。調査でお世話になっている先で言えば、コンテツ・エンタケとか丹羽兵助とか。
 讃を加藤紘一氏が書いているのですが、まさに、関係者にとっては宝箱のような書物でありましょう。

ただ、一方で、内部者の発言ならではの偏りがあるのも事実。
 書籍が対象にしているのは、「自民党政権の農政」なので、1955〜2009年まで、となっています。2012年は自民党が年末に政権復帰するのですが、この本では第二次安倍政権以降のことは書かれていません。
 かつ、研究書としては、1955年から70年代の方が、客観性が高いように思われます。
 
此処から先は、読んだ人間の感想です。

 政策史では、意思決定が公開の審議会等から自民党内の部会へ、さらに党部会の選抜メンバー(インナー)へと変わっていく、と説明するのが日本政治史の常道です。これは院制・鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府ともよく似てます。で、吉田氏は、この自民党農林部会のインナーに極めて近い存在であったことがよくわかります。

 北朝鮮訪問の経験や、過去の政治家の様々なエピソードなど、他にあたっても得られない貴重な情報がある一方で、その情報には、一種の感情的な側面があるように思います。

 農林部会インナーは党人派と農水省事務官系参議院議員に偏っているようです。これらの情報が非常に豊富である反面、土木技官系参院議員の情報はわずか。さらに、農水省の意見に比較的近い農水大臣経験者については、農政上も重要な役割を果たしたと思われますが、完全に列伝なども省かれてしまっています。

 意思決定の場に、米価審議会や農政審議会の「外部有識者」がどの程度関わったのか、についても、全く触れられてはいません。僅かに、過去資料を整理する中で東畑精一(流石にこの人は外せない)が米価の物価連動方式への道筋をつけたこと、基本法を事実上準備したこと、大川一司が米価引き上げにキレて辞めた、とかが書いてあるのみです。この点でも、資料の整理を主にした1950〜70年代の方が客観性が高いように思われます。

 一方、各派閥に農林関係の専門家が育成されていたこと、相伝のように世代の異なる者が選ばれ、育成されてきたこと、特に農政関連の議員(事務関係参院議員や部会顧問)が中曽根派に集中していたこと、など、当事者が整理してくれたことで素人にも理解できたこともあります。
 バランスよく考えれば、やはり他では得られない情報の宝庫には違いありません。

 しかし、そう考えると、もともと経世会系が持っていた農業土木と、中曽根→渡部→江藤→伊吹と続く農林族主流派を合体させている二階派って、農林族の最終合体形態みたいなもんですねえ。

 もう一つ、読んでいて関心を強く持ったのは、1955〜65辺りに展開された河野一郎農政です。
 河野派(春秋会)が中曽根派の母体なんだから当たり前と言えばまあそうかもしれませんが、河野農相はかなり野心家で、かつ異質です。
 なんと、60年前に現代的な農政の課題をぶちあげていることがわかるのです。
 河野一郎は二回農水相を務めるのですが、その間に「農業系団体の再編」「肥料二法の廃止」「生産者米価据え置きや消費者米価引き上げ反対」二期目には「コメ自由販売制度の検討」までぶちあげています。同時期に農協からの信用部門分離の提案もあったという時代。…あれ、これ2016年とよく似てますねえ。。。

 河野一郎が農相というと、フルシチョフの前で下戸なのにヴォトカを一気飲みしたとか佐藤内閣でうまいこと閣外に出されて倒閣しようとしていたら急死したとか、政治史上では農政に触れない事のほうが多い(伊藤正義はこの時河野大臣と仲違いして農水官僚をやめて出馬したので、宏池会に行ってしまった)。政治学ではあまり触れない部分で、実は先進的なアイデアを持っていたんだな、というのが大変面白かったです。

まあ、1000頁近い大著ですが、好事家には外せない一冊ですね。

2015年6月10日水曜日

農業経済学の研究者が農地所有者と土地改良区組合員になった件

 母の相続手続きをいろいろしていたら、図らずも自分の仕事に絡む話をいろいろとこなす羽目になってしまった。

 東大農経でも、実際に農家のせがれというのは殆どいなかったので、もしかしたらこういう経験をしている人もレアかもしれない。

 「面白い」と表現すると不謹慎だが…、いずれにせよ、興味深い実務経験となったので、ここでその一端をご紹介しよう。

あくまでもある地域(まあ、すぐ特定されてしまうが)の話であり、全国どこでもそうだ、ということではないのでご注意を。
 順を追って、農協(JA)、土地改良区、農業委員会と市役所農林課であります。

農協

 とにかく手続きが早かった。農協の統廃合や金融・保険業務偏重については、特に営農指導の観点から批判されることも多いのだが、逆に言えば金融保険業としての農協の手際の良さは決して民間銀行や保険業者にひけはとらない。
 一方、農協組合員資格だが、こちらは住所が異なるので資格としての継承はできない。私も今の所こちらで就農する意思はないので、ここは払い戻しの手続きをとることになった。まあ、これは仕方ないね。

 母はすでに農業者年金をもらう立場であり、農業者名簿に記載はされているのだが農業からはだいぶ遠ざかっている。とはいえ、一定の農業共済等の振り込みを今年も行っていたので、これを引き継いで支払うことになった。

 私の終身年金や、母の年金等の処理もあったので、この機にJAバンクに口座を作ってみた。コンビニ、郵便局や三菱東京UFJなどでも平日は手数料無料など、思った以上に便利である。相続資産もいい感じに運用できる積立年金を紹介してもらったし、これらのサービスについては本当に充実している。

 農協については、特に営農指導よりも非農家の準組合員によって存立している側面がとかく批判の対象になったことが記憶に新しい。が、地方においては郵便局か農協しか金融機関が近くにない場所もある。私の集落からも歩いていける金融機関はここだけだ。その意味では、即応力の高い金融サービスとしての農協の地域への貢献は見逃せない所がある。ガスとかもね。

 このブログでも紹介したが、現実の農協改革の方向性は、営農を重視した“農業(者)の”協同組合と、農村に立脚する“農村(住民)の”協同組合の二つの方向性があり、地域によって、あるいはニーズによって特化が進んで行くのかもしれない。その意味では、農業協同組合というものそのもの意義を改めて考えさせられた。

土地改良区

 土地改良区に関して研究調査をさせていただいている以上、まさか自分が賦課金未納問題を引き起こすわけにはいかない。…と偉そうに言いつつ、実は私は実家のエリアに土地改良区が存在することを知らなかった。名前が合併前の名前になっているのと、私の実家はため池地帯であることを考えれば容易に想像がつきそうなものだが、まさに頭でっかちの典型ですね。

 何事にも抜かりない母の書類セットのおかげで、私は無事に土地改良区からの送金書類を発見し、「賦課金を未納している土地改良区研究者」にならずに済んだ。
 電話をかけて、相続手続きがしたいこと、所有者として賦課される農地情報を地図でいただきたいことをお話しすると、これまた手慣れた感じで書類をすぐに東京まで送ってくれた。もしかして相続関連に苦労されてんのかなあ。。

 電話では「水土里情報のデータがあれば是非それを!」とリクエストしたのだが、実際には土地原簿のコピーと、地番入り測地地図に該当農地に色を塗ってくれたものが到来した。少々残念だった。この県では水土里情報は個々の農家には触れる機会もないのか。まだ未整備の状態にあるのかもしれない。

農業委員会

 さて、本命である。なんといっても農地流動化は現下の農政最大のテーマですからね。勇躍、名刺まで用意して(あわよくばお知合になろうという邪な発想…)行ったのですが、「農業者名簿名義人は登記簿を法務局で書き換えてから」と一蹴された。法務局はさっき手続きしたばっかりです。。。

 手続きとしては、「所有権の相続」ということになるが、これまた住所が異なるので、耕作権にあたるものは、、どうなるんだろうか。委員会の事務局の説明では「3条資格者」にはなれるようなのだが、利用権設定を締結するための資格はない、というような説明だった。この辺は法律と実務に詳しい人に聞かないとよくわからないな。窓口の人も詳しく知らないようだし。

 まあ、戸籍謄本等の身分証明書類と、土地改良区にもらった原簿ベースの農地分布図があったので、それらを元に申請したら、母の農業者名簿の閲覧はできました。…といっても、固定資産税課税証明を持っているので、未登記の謎の農地はなかったという確認くらい。ここでも、農業委員会さんは水土里情報について「何それ?」とのこと。電話帳のような地籍図が出てきて(しかもその地図内の名義人には25年前に死んだ私の父の名が)、なんとも心配になってしまった。

 農業経済の先生の中には今こそ平成検地を!みたいにおっしゃる方もいる。まあ、不在の所有者の所有権を作人に分配するってのはさすがに難しいと(当事者になってしまったので自己弁護だが)思うのだけれど、でも所有者に関するデータのアップデートすら数十年にわたり滞っているというのは、、、もうちょっと力を入れられればいいのですけどね。まあ、これは従事者の怠惰ではなく、農政上の力点の問題でしょうね。

市役所農林課

 散々粘り倒して農地の貸借斡旋は?農地バンクは?と聞きまくったら、今度は農林課(同フロア)を紹介された。で、さっそく担当の方とお話し。でも、「営業は名刺入れに入れて帰れ」方式なのでせっかく名刺を出しても受け取ってもらえず。こりゃ仕方ないので邪な希望は捨て、相続に絡んで農地バンクの運用実態を聞いてみた。

 まず、最初にいきなり言われたのが「団地化の見込みのない農地、放棄状態の農地は基本的に申請を受け付けない」ということ。
 え?農地中間管理機構(農地バンクの正式名称)って、耕作者がいない農地をストックして管理し、担い手に渡すのが仕事じゃないの????

農水省のQ&Aにはこんな記述がありますね。農地保有合理化法人の失敗を踏まえた上で、
農地保有合理化法人の
出し手受け手の個々の相協議を前提としており、地域全体として農地流動化を進めよ うという機運ができていなかったこと

を反省し、

今回の農地中間管理機構は、
  リース方式を中心とし(機構が借り受けて、担い手に転貸する。理想的な農地利用の実現 に向けて転貸先は段階的に更していくことも想定) 地域の関係者の話合いによる、人農地プランの作成見直しとセットで取り組むこと 財政支援も充実させること 
…「から、成功する」と(農林水産省 農地中間管理機構の説明ページ、農地中間管理機構に関するQ&A http://www.maff.go.jp/j/keiei/koukai/kikou/ 2015年6月9日閲覧)。

 うーむ、この自治体は、思いっきり事前の相対協議を想定してるが…。あ、そうか、あくまでも相対ではなく、人農地プランに準じて地域内での団地化計画を優先させろ、という論理か。まあ、なんかよく読まないとわかんない逃げ道だが、制度立案の目的とは異なっているようにしか思えませんねえ。

 特に私の場合、担い手と私との関係以外の議論が難しいのですが。周辺は一応現況で続けている農家がいるわけですから。しかも遠隔地にいるし。逆に団地化を盾に取られれば、個人的な貸借の希望は叶わない。
 じゃあ、放棄地のままにするしかないじゃないか…。

 …むこうも段々こちらが制度に関して知っている人間だとわかったらしく、いろいろ教えてくれた。まず、機構の本部はそもそも県農政課にあること。市は受け付け窓口として農林課で担当しているが、申請をさばく人員すら足りない。「管理?誰がするの?」状態だということだ。県の方でも担当している人員が3名程度らしいので、要するに掛け声に比べて「中間保有(管理)」する人なんて全然いないってわけだ。

 そこで、実態としては自治区の区長さんなどに地域内で取りまとめることをお願いしているらしい。そこで、貸し手と借り手を事前にマッチングし、しかも団地化を実現した上で、中間管理機構に「申請」させているのだそうだ。
 うーん、それなら合理化法人と変わらんような…?????

 ちなみに、農地は完全な放棄状態ではなく、作付けできる状態にしておかないといけないとのこと。リタイアしようとする所有者は「最後の一踏ん張り」しないと貸せない仕組みのようだが、これ、すでに放棄されている農地の解消策に全くなっていないような…。

 対応してくれた職員さんは、第三者が集落に入っても説得力もないし、反感を買うだけだ、という趣旨のことを言っていた。まあ、たしかに現状の過剰職務としての活動では、地域内で信頼を得られるほど足を運ぶことも中間保有も全くできないわけだから、当事者の言い分としては合理性がある。

 初年度の農地中間管理機構の全国平均契約実績は2割程度、という誰しもが想像していたが聞きたくはなかった集計が発表されたのはつい最近の話。まあ、地域内で、しかも複数人の合意形成に任せる方式では、急速な契約増加が期待できないのが当たり前、というところだろう。しかし、摩擦を少なく進めていくにはやむを得ない部分はあるとは思う。

 うーむ。実務者なりの袋小路は理解できるだけに、自分の農地の話、という点を棚にあげれば、同情する気分になってきた。

まとめ:団地化優先か、貸借契約優先か

ま、ここで書いた話では、農地流動化に関する農業委員会と基礎的自治体農林課のとある例だ。もちろん、ここに書いているのは特定の個人や機関を批判する目的のものではない。むしろ、制度の目的に比べて、準備されている政策資源が足りていないのではないか、という問題提起とご理解いただきたい。今後、現場の方に調査させていただくのにヒントを得たかもしれない。

 農協、土地改良区はほぼ対応が終わったので、あとは「耕作放棄地を所有する農経学者」というこの不名誉極まりない状況を一刻も早く解決するだけだ。
 だが、農地中間管理機構も成立し、所有者が意思を示せば貸借が可能なのではないかという希望はあえなく露と消えた。

 追加的にやらなければならない事は、一つは県の農林課に行ってみること。まあ、門前払いされるかもしれないが、ここに聞いてみないと中間管理機構関係にお願いするにも手がない。
 もう一つは、区長さんにお願いすること。まあ、これで全部うまくいけばそりゃ楽は楽なんだが、、すでに人足も出せずに区長さんには迷惑かけてるからなあ。
 いずれにせよ、まずは名義人変更が済んでからの話になりそうだ。

 現場で実働する自治体は、耕作放棄地の貸借促進や中間保有以上に、現況としての利用価値と団地化計画を重視している。そして、現在の機構の体制では、それがコストに見合う最適な行動論理というわけだ。だが、この体制に劇的な農地流動化を期待するのは、残念ながら疑問なしとは言えない。
 この疑問に答えるには、団地化と貸借、どちらを先行すればより農地の流動化の進度が早まるか、という問題に答える必要がありそうだ。

 …何か、先行研究はあったかな。


2015年5月12日火曜日

去る5月6日に母が亡くなった。

 星霜は70というと、平均寿命が八十余歳の国では随分と短いようにも感じる。が、息子としてはよく長く頑張ってくれたという思いの方が強い。
 母は、私を産んでから30数年に渡ってリウマチの持病を抱えていた。また、最期の3年はALSという難病と闘ってきた。

 7日から、大学休業期間を使って帰省する予定を立てていた。全くの偶然ではあるが、平日を数日挟んでいたこともあり、通夜葬儀から当面行うべき相続手続きの第一段階まで一通り行うことができた。
 私が7歳の時に父が亡くなって以来、母は家庭の切り盛りを全て自分で行ってきた。祖父母も一人で看取ったし、ヘルパーにかかる時も、入院する時も、介護施設への入居も全て一人で済ませてきた。
 私の人生は、母の敷いてくれたレールの上を歩いているようなものだった。
亡くなってもなお、私は母の計らいの中にあるかのようだ。

私は13歳で寮に入り、19歳から東京に出たので、母と同居していた期間は非常に短い。13年ほどの東京生活で、手術、緊急入院でICUに入ること5回。その度に愛媛に帰り、落ち着いたら帰京する、そんな親子関係だった。

 最期に会ったのは先月末、最期の入院の病状説明だった。
 今回は、さすがにもうだめかもしれない、というのは症状からも察せられた。が、本当に亡くなったという連絡をもらうまでは、まだ大丈夫なのではないか…とどこかで思っていた。長い間診てくださっているリウマチ科の先生も、退院後の体制を介護施設と協議する、と仰っていたから、どこかでみんながそう思っていたのだと思う。

 最期の病気であるALSの告知があったのは3年前の2012年だった。すでに重度障害で寝たきりになっていた母には、呼吸器をつける等の延命手術の負荷には耐えられない。それが長年診てくださった医師の告知であった。
 同時に言われたのは、胃瘻を造設して、養生しても半年くらいではないか、と。

 2009年の結婚から、子供が生まれた2011年あたりの3年間は、今思い返せば一番安定した時期だった。預かってくれた施設は非常に手厚く、リウマチ薬の改善もあって病状も安定していた。持ち前のおせっかいな程の段取り力によって、やるつもりもなかった結婚式もできたし、子供のための亥の子まで手配してもらった。
 しばらく、この状態が10年くらい続くのではないかと思っていた。

 体の筋肉が動かなくなっていく難病を、何もできず見守るしかできないのは辛いものだ。舌がもつれ、最期の半年近くは私以外の人には会話も聞き取れなくなってしまった。リウマチで90°変形した指を使って器用に絵筆を握り、iPadを使いこなし、週末にはSkypeで会話していた母が、である。信じられなかった。
 痰の吸引も数十分に一度という状況になると、あれほどの話好きが、長い会話を嫌うようになった。

 それでもなお、決して生きることを諦めない人だった。冬を越え、一年たち、今年は告知から2年目を迎えていた。最期の日も、救急入院した日赤から、かかりつけ医である北条病院に転院するために酸素吸入器を取っていたところだったようだ。
 そのまま夜中寝ている間に逝ってしまった。
 突然ではあったが、本当に自分の力で生きるところまで生き抜いたということなのだろう。

3 

 母は、高校・大学でカトリックに出会い、受洗した。若いときにはシスターとして修道院に入っていたが家庭の事情で結婚し、私が生まれた。
 母は敬虔な信者であった。末期癌で苦しむ父を支えつつ洗礼を受けさせたし、私には小さい時から普遍の教会で主の教えに触れる機会を作ってくれた。
 同時に、カトリック教会の皆さんも、母を常に支えてくれた。最後までお世話になったケアマネージャーも、あやめ荘と聖マルチンの家という二つの介護施設も教会のご縁で紹介されたものだった。
 マルチンは北条修道院に隣接していたため、母は日曜日のミサに与ることができるようになった。リウマチで動けなかった母にとっては、私が生まれた時に断念していた信仰生活を漸く実現したわけだ。良い環境だったと思う。

 葬儀も母からの希望があり、カトリックの葬礼ミサとしてあげていただいた。長患い、とくに最期数年は病床で言葉も通じない状態だったにもかかわらず、100名近い方々が参列してくださった。
 信仰だけではない。多くの助けが母にはあった。高田集落の皆さんは母が動けない代わりに家の周囲の水路や農地の管理にも心を砕いてくださったし、マルチンの職員の方達は深夜も数十分おきに母の世話に来てくれた。長年かかりっきりだった松山日赤病院と北条病院の先生方も、厄介な患者だったにもかかわらず、最期まで診てくださった。

 母は「求めよ、されば与えられん」を地で行く人だった。時に強く長く、自分のための理想を主張する人だった。自らの体がままならない中での、これらの主張については、必ずしも心地良いものではなかった人もいらっしゃったことと思う。人生の終わりに、そのことについては改めて寛恕を願いたいと思う。

 もう少し、今の生活が続いていくものだと思っていた。 
 だが、葬儀で神父様の言葉を聞いて、少し考えが変わった。松山三番町教会のルイス神父は、私たちの結婚式でもお世話になったのだが、葬礼ミサではこんな話をしてくださった。「カトリックにおける葬礼は、その人の命が、肉体を抜けて、新しい平安の世界へ移ることを記念するものだ」と。

 言われてみれば、母の顔は、私が今まで見た中でも一番穏やかな顔だった。時に薬の影響から浮腫でむくんだり、リウマチが痛くて険しい顔をしたり、私にとっての母の顔は、物心着いた時から、体調によって変わってしまう不思議な顔だった。
 そんな母が、とても穏やかな顔をしていた。母の人生を知る多くの参列者の方も、口を揃えてその死に顔を褒めていた。

 私は考え直した。これはきっと、神様のお計らいであろうと。常に生きることを諦めない母を護ってくださっていた方が、時宜をお決めになったのだろうと。闘い終えた母の顔の安らぎは、それを伝えているのだろうと。
 だから、人生の過不足を論じるのではなく、その強く最期の瞬間まで生き抜こうとした姿を記憶に留めておくべきであろうと。

 母の生き方に学び、その強さを、子供たちに伝えられるように、私自身が生きなくてはならない。

 さて、この文章は母の日である5月11日に書いている。どうせ愛媛に帰っている日だから、と思い、花も何も東京からは手配していなかった。もはや、花を見せても喜んでもらう術もない。
 そこで、こうして長文を書いて、母の人生と自分の今後の指針を読んでもらうことにした。

 子供がいうのもなんだが、私は私の母ほどに困難な人生を強く生き抜いた人を知らない。もしかしたら、この経験が、どこかで苦しんでいる人の目に止まるかもしれない。70億分の一の確率に期待するのは統計学を学んだものとしては微妙なところだが、もし誰かのお役にたつ幸運に与ることができれば、私の母は信仰者としての永遠の生命に近づくのではないだろうか。そう願いたい。

 遺品を様々整理していると、母が大事にしてきた母の家族、すなわち私の祖父母の史料が出てきた。また、自分自身の俳句や日記も。なかなか触れることのなかった歴史を感じた。同時に、私たちには語ることのなかった感情も。機会を見つけて綺麗にまとめてこの場ででもアップできたらいいですけどね。

 私も32年の人生で様々な尊敬できる人に出会ってきた。しかし、母ほどに困難な境遇にも強くあり、生きることを諦めなかった人はいないのではないかと思う。

 私は、7歳で父を亡くしてから、母の助けで自分のやりたいことをすることができた。東京の大学に都合10年も通い、日本中の農村に出かけ、家族も得た。
 それはベストではなかったかもしれない。だが、東京と愛媛を行き来する生活は、私が追求すべき生き方なのだと思う。 
 なぜなら、私にとっては、学問を成すことが、最期まで信仰を貫いた母の強さに近づくことだからだ。


 末尾に、母が困難な生命を全うし、平安に至るまでの道を支えてくださった多くの方々に、あらためて御礼を申し上げます。ありがとうございました。

中山間地域フォーラム2021年度シンポジウムのお知らせ

 私が所属するNPO法人中山間地域フォーラムのシンポジウムが7月10日(土)にオンラインで開催されます。 タイトルは「 新たな農村政策を問う ~農村発イノベーションは広がるか 」です。  基本計画が新しくなり、新しい農村政策に関する有識者の提言もなされました。現場の新しい活動と、...