2015年5月12日火曜日

去る5月6日に母が亡くなった。

 星霜は70というと、平均寿命が八十余歳の国では随分と短いようにも感じる。が、息子としてはよく長く頑張ってくれたという思いの方が強い。
 母は、私を産んでから30数年に渡ってリウマチの持病を抱えていた。また、最期の3年はALSという難病と闘ってきた。

 7日から、大学休業期間を使って帰省する予定を立てていた。全くの偶然ではあるが、平日を数日挟んでいたこともあり、通夜葬儀から当面行うべき相続手続きの第一段階まで一通り行うことができた。
 私が7歳の時に父が亡くなって以来、母は家庭の切り盛りを全て自分で行ってきた。祖父母も一人で看取ったし、ヘルパーにかかる時も、入院する時も、介護施設への入居も全て一人で済ませてきた。
 私の人生は、母の敷いてくれたレールの上を歩いているようなものだった。
亡くなってもなお、私は母の計らいの中にあるかのようだ。

私は13歳で寮に入り、19歳から東京に出たので、母と同居していた期間は非常に短い。13年ほどの東京生活で、手術、緊急入院でICUに入ること5回。その度に愛媛に帰り、落ち着いたら帰京する、そんな親子関係だった。

 最期に会ったのは先月末、最期の入院の病状説明だった。
 今回は、さすがにもうだめかもしれない、というのは症状からも察せられた。が、本当に亡くなったという連絡をもらうまでは、まだ大丈夫なのではないか…とどこかで思っていた。長い間診てくださっているリウマチ科の先生も、退院後の体制を介護施設と協議する、と仰っていたから、どこかでみんながそう思っていたのだと思う。

 最期の病気であるALSの告知があったのは3年前の2012年だった。すでに重度障害で寝たきりになっていた母には、呼吸器をつける等の延命手術の負荷には耐えられない。それが長年診てくださった医師の告知であった。
 同時に言われたのは、胃瘻を造設して、養生しても半年くらいではないか、と。

 2009年の結婚から、子供が生まれた2011年あたりの3年間は、今思い返せば一番安定した時期だった。預かってくれた施設は非常に手厚く、リウマチ薬の改善もあって病状も安定していた。持ち前のおせっかいな程の段取り力によって、やるつもりもなかった結婚式もできたし、子供のための亥の子まで手配してもらった。
 しばらく、この状態が10年くらい続くのではないかと思っていた。

 体の筋肉が動かなくなっていく難病を、何もできず見守るしかできないのは辛いものだ。舌がもつれ、最期の半年近くは私以外の人には会話も聞き取れなくなってしまった。リウマチで90°変形した指を使って器用に絵筆を握り、iPadを使いこなし、週末にはSkypeで会話していた母が、である。信じられなかった。
 痰の吸引も数十分に一度という状況になると、あれほどの話好きが、長い会話を嫌うようになった。

 それでもなお、決して生きることを諦めない人だった。冬を越え、一年たち、今年は告知から2年目を迎えていた。最期の日も、救急入院した日赤から、かかりつけ医である北条病院に転院するために酸素吸入器を取っていたところだったようだ。
 そのまま夜中寝ている間に逝ってしまった。
 突然ではあったが、本当に自分の力で生きるところまで生き抜いたということなのだろう。

3 

 母は、高校・大学でカトリックに出会い、受洗した。若いときにはシスターとして修道院に入っていたが家庭の事情で結婚し、私が生まれた。
 母は敬虔な信者であった。末期癌で苦しむ父を支えつつ洗礼を受けさせたし、私には小さい時から普遍の教会で主の教えに触れる機会を作ってくれた。
 同時に、カトリック教会の皆さんも、母を常に支えてくれた。最後までお世話になったケアマネージャーも、あやめ荘と聖マルチンの家という二つの介護施設も教会のご縁で紹介されたものだった。
 マルチンは北条修道院に隣接していたため、母は日曜日のミサに与ることができるようになった。リウマチで動けなかった母にとっては、私が生まれた時に断念していた信仰生活を漸く実現したわけだ。良い環境だったと思う。

 葬儀も母からの希望があり、カトリックの葬礼ミサとしてあげていただいた。長患い、とくに最期数年は病床で言葉も通じない状態だったにもかかわらず、100名近い方々が参列してくださった。
 信仰だけではない。多くの助けが母にはあった。高田集落の皆さんは母が動けない代わりに家の周囲の水路や農地の管理にも心を砕いてくださったし、マルチンの職員の方達は深夜も数十分おきに母の世話に来てくれた。長年かかりっきりだった松山日赤病院と北条病院の先生方も、厄介な患者だったにもかかわらず、最期まで診てくださった。

 母は「求めよ、されば与えられん」を地で行く人だった。時に強く長く、自分のための理想を主張する人だった。自らの体がままならない中での、これらの主張については、必ずしも心地良いものではなかった人もいらっしゃったことと思う。人生の終わりに、そのことについては改めて寛恕を願いたいと思う。

 もう少し、今の生活が続いていくものだと思っていた。 
 だが、葬儀で神父様の言葉を聞いて、少し考えが変わった。松山三番町教会のルイス神父は、私たちの結婚式でもお世話になったのだが、葬礼ミサではこんな話をしてくださった。「カトリックにおける葬礼は、その人の命が、肉体を抜けて、新しい平安の世界へ移ることを記念するものだ」と。

 言われてみれば、母の顔は、私が今まで見た中でも一番穏やかな顔だった。時に薬の影響から浮腫でむくんだり、リウマチが痛くて険しい顔をしたり、私にとっての母の顔は、物心着いた時から、体調によって変わってしまう不思議な顔だった。
 そんな母が、とても穏やかな顔をしていた。母の人生を知る多くの参列者の方も、口を揃えてその死に顔を褒めていた。

 私は考え直した。これはきっと、神様のお計らいであろうと。常に生きることを諦めない母を護ってくださっていた方が、時宜をお決めになったのだろうと。闘い終えた母の顔の安らぎは、それを伝えているのだろうと。
 だから、人生の過不足を論じるのではなく、その強く最期の瞬間まで生き抜こうとした姿を記憶に留めておくべきであろうと。

 母の生き方に学び、その強さを、子供たちに伝えられるように、私自身が生きなくてはならない。

 さて、この文章は母の日である5月11日に書いている。どうせ愛媛に帰っている日だから、と思い、花も何も東京からは手配していなかった。もはや、花を見せても喜んでもらう術もない。
 そこで、こうして長文を書いて、母の人生と自分の今後の指針を読んでもらうことにした。

 子供がいうのもなんだが、私は私の母ほどに困難な人生を強く生き抜いた人を知らない。もしかしたら、この経験が、どこかで苦しんでいる人の目に止まるかもしれない。70億分の一の確率に期待するのは統計学を学んだものとしては微妙なところだが、もし誰かのお役にたつ幸運に与ることができれば、私の母は信仰者としての永遠の生命に近づくのではないだろうか。そう願いたい。

 遺品を様々整理していると、母が大事にしてきた母の家族、すなわち私の祖父母の史料が出てきた。また、自分自身の俳句や日記も。なかなか触れることのなかった歴史を感じた。同時に、私たちには語ることのなかった感情も。機会を見つけて綺麗にまとめてこの場ででもアップできたらいいですけどね。

 私も32年の人生で様々な尊敬できる人に出会ってきた。しかし、母ほどに困難な境遇にも強くあり、生きることを諦めなかった人はいないのではないかと思う。

 私は、7歳で父を亡くしてから、母の助けで自分のやりたいことをすることができた。東京の大学に都合10年も通い、日本中の農村に出かけ、家族も得た。
 それはベストではなかったかもしれない。だが、東京と愛媛を行き来する生活は、私が追求すべき生き方なのだと思う。 
 なぜなら、私にとっては、学問を成すことが、最期まで信仰を貫いた母の強さに近づくことだからだ。


 末尾に、母が困難な生命を全うし、平安に至るまでの道を支えてくださった多くの方々に、あらためて御礼を申し上げます。ありがとうございました。

中山間地域フォーラム2021年度シンポジウムのお知らせ

 私が所属するNPO法人中山間地域フォーラムのシンポジウムが7月10日(土)にオンラインで開催されます。 タイトルは「 新たな農村政策を問う ~農村発イノベーションは広がるか 」です。  基本計画が新しくなり、新しい農村政策に関する有識者の提言もなされました。現場の新しい活動と、...