2015年1月29日木曜日

天上人間会相見

 妻の祖母が亡くなった。星霜92を数えるというから、大往生には違いない。
 私は知り合って10年ほどになるが、いろいろ気づかいを回してくださるよい方だった。何かの入試で読んだが、浅田次郎のショートショートに、癌になった江戸っ子の祖母の話がある。キセルをふかしながら終末の手続きを全部自分で済ませ、遺体を引き取るように言ってさっと去る。彼女はその主人公を思わせる「粋」なところがある人だった。

 詩吟、俳句をよくした彼女とのやり取りで、明瞭に覚えているのは長恨歌の一節である。
 
 在天願作比翼鳥(てんにありてはねがはくばひよくのとりとなり)
 在地願為連理枝(ちにありてはねがはくばれんりのえだとならむ)
 
 比翼連理、翼が繋がった鳥と枝がつながった鳥。離れ離れになった恋人が再開を誓う言葉だ。それは、私と妻のことを言ったのか、数年前に亡くなった祖父と自分のことを言ったのか。相当に仲の良い夫婦だったと伺っている。何か私たちに諭すところがあったのかもしれない。

 私は漸く「梨花一枝春帯雨」の一節を思い出して添えることができた。というか、モーニング娘。の石川梨華ファンだったのでこの一節だけ知っていたのだ。玉容寂寞、これは冥界の楊貴妃が玄宗皇帝を偲ぶシーンの描写である。偶然だが、会話が成り立つ格好になったようだ。

 葬儀の参列者は、彼女が人生において多くの困難を乗り越えてきたことを讃えた。
 幼少の折に実業家の父に連れられ台湾新竹に移住したこと、戦前の内地研修旅行で一月日本中を回ったこと、卒業後高雄の糧秣廠に務めたこと。女学校卒業後だから、おそらく軍属だったのだろう。戦前のキャリアウーマンというところか。
 その後の引揚のこと、飯岡の実家は焼亡し死者も出たこと、結婚後は常時15名が住む家で毎日の家事を行ったこと、6人の子供を育て、5人の弟妹の世話をしたこと。
 ・・・どれも、現代人には全く想像もつかないことばかりだ。

 私が最期にお会いしたのは昨年11月、曾孫の七五三にと訪問したときのことだ。すでに癌が進行し、死期が近いのを悟っておられたのか。私には内地研修旅行のアルバムを見せてくれた。白砂青松の海岸線、木造の船着き場、おそらく増上寺ではないかと思われる大伽藍。
 それらは、私たちがもう二度と観ることが無い失われた日本だった。

 主をうしなった部屋には、昭和天皇御真影と柱時計だけが残された。
古い日本を知る人が去り、その中に蓄積されてきた日本人の知識と知恵が失われた。

 一人の農村女性の勇気と苦労の経験も、それを知らぬ者による物語へと形を変えようとしている。
 動かない写真と、頼りない記憶は、失われるものを補うには十分ではない。だが、それでも、この歴史を聞いた私には、これを物語る必要があるように思った。私たちは、そこから受け継ぐものが何かしらあると信ずるが故である。
 我々が、この国に伝えられてきた何かしらの伝統を守り伝えられるとき、連理の枝は過去と未来をつなぐ。そう信ずるが故である。

 知ることは生きることであり、伝えることは育てることである。一つの筋道が通った人生を、敬意をもってここに記したい。

中山間地域フォーラム2021年度シンポジウムのお知らせ

 私が所属するNPO法人中山間地域フォーラムのシンポジウムが7月10日(土)にオンラインで開催されます。 タイトルは「 新たな農村政策を問う ~農村発イノベーションは広がるか 」です。  基本計画が新しくなり、新しい農村政策に関する有識者の提言もなされました。現場の新しい活動と、...