2011年1月10日月曜日

正月行事の備忘録

実家に帰省してきました。(追記:念のため、次の写真は駅前のバス停です。私の実家は民家ですのでもうちょっと先の写真を見てください)
駅前のバス亭、懐かしいが相変わらずのひっそりとしたたたずまいです。
ちなみに、鍵が締まっていて中には入れない・・・。年末だからでしょうか。この通りは伊予北条駅から鹿島まで続く目抜き通りです。といっても、鹿島と地域の鎮守である国津彦命・櫛玉姫命神社への参道と駅は少しずれているので、明治位に開けた道なのでしょう。12個400円のたこ焼きがうまい。


さて、今年の正月は母が入院、妻が身重ということで、私は一人正月と相成りました。
仕方がないので、墓参と正月準備を聞き覚えで行ってみました。母の言うとおりにしてみたので、わりと地元の習俗を伝えているかと思いますが、いかんせん超簡略適当になっております。

まず、我が家では10年ほど前に自宅でお餅を搗く習慣が途絶えました。もちつき機は今も健在ですが、丸める人員が居なくなったのです。私の祖父はとてもうまかったのですが。ちなみに、今年は妻の実家でもちつきをしてきました。関東では本当にお餅を丸めないのですね。ま、搗きたてのお餅は何でもうまいですが。

さて、そのお餅、我が家では大鏡餅を2か所、小さい鏡モチを6か所にお供えします。
大きい鏡モチの一つは「神棚」、もう一つは「お寺」に納めます。
いつのものかは分からない大きな箱膳に、米を盛り、ウラジロを二枚引き、鏡餅を載せます。サトウの鏡餅さん、いつもお世話になっております。

6か所の小さい鏡モチを順に置いていきます。まず、大黒様(我が家では4畳半の仏間にあります。大黒柱の通った部屋にあるのは偶然?)

つぎに台所の荒神様。

台所の荒神様は、祖母が、「ものが無くなるとお豆腐を備えるように」と言っていました。子供のころは本当にお供えするとものが出てくるので信じていたのですが、あれは無くした本人(祖母)が思い出して発見していただけだったのかも。
次に、山の神様。これは本当はこの山(明治の合併まで、寺谷村の祇園社が鎮座していた)のてっぺんの祠に持って行くのですが、


面倒なので我が家のお供え場所に安置。


井戸の神様

それから、家の南北にあるオジノッサン(「御地主様」かな?)。南のオジノッサンは石の塔ですが平成15年頃にあった芸豫地震で家の下に落っこちて割れてしまいました。。北のオジノッサンは安心のコンクリート製です・・。

昔は月の数だけ小さい鏡モチを作っていました。閏月がある時は13個、結構まじめにやっていたような気がします。残りのお餅はどうしていたんだろう?離れとか、他の場所にも飾っていたと思うのですが、昭和19年生れの母にもそこは伝承されていません。祖父母にもっとちゃんと聞いておけばよかったと思いますが、後悔先に立たず。

お餅をビニールかぶせたままにしている理由は、最近イノシシ等の話を聞くから、というより、回収して食べるためです。

神棚のお札を整理し、お床に花を飾ります。

最後に、大鏡餅をお寺に納め、墓参り。

光徳院は嘉元元年(1309)後醍醐天皇勅願所として尊竜上人が再興、のち大永兵火(1525)にて前章、仏像のみ貞観期(810‐823)のものを伝える。本尊阿弥陀如来は国津比古命神社の本地仏として慶応年間まで祀られた、と説明にあります。
江戸期の再興者、松山藩家老の豊島茂太夫が、石神井豊島氏の末裔だったら、愛媛→石神井の移民としては縁があるんだけど、まあそううまくはいかないでしょう(笑)

写真を撮り忘れましたが、高田、いや北条では、玄関の飾りに杓文字型のお飾りを飾ります。これも関東では見かけないのでびっくりした点でした。我が家の締め飾りは親戚の80歳のお爺さんに作ってもらっています。縄くらいは何とか綯えるので、いつか教えてもらって作りたいなあ。


六地蔵さんを経て、いよいよ墓参。曾祖父・祖父・父は別として、以前のブログに書いた、我が家のルーツ西原幸太郎の墓です。


明治の建立ですが、周囲には天明・文政・天保などの墓が並べてあります。「●●童子」が多いから夭折した子供のお墓なのでしょう。改めて確認すると、墓石の建立年と、家の位牌の過去帳の没年は完全に一致します。位牌に院号が追加されている点を含めて、墓石を基に位牌が作られたのかなとも思いますが、一方で墓石が残っていない人もいるので、位牌の根拠は言い伝えや過去帳なのかもしれません。
 天明年間の墓石が、我が家でさかのぼれる最古のご先祖、幸七さま(天明8年没)です。とりあえずここからは実在人物なんだろうなと確認できます。

 墓参も終えて、最後に高田から見た高縄山と鹿島。この祠はかつて菅原道真公が休んでいったと祖母が言っていたがさすがに嘘だろう。ただ、光徳院に勅使が来る事があったそう(この神主さんのブログの充実はすごい。こんな地元を紹介してくれる所があるとは感激です)なので、そっちの関係かも。



こうして迎えた平成辛卯年。家族も増える事だし、良い年になるといいなと思います。

2010年10月22日金曜日

フェリペ神父の帰天

http://www.aiko.ed.jp/school_news/2010/10/post-55.html

私が卒業したある学校の元理事長が亡くなりました。

いやしくもカトリックの神父様に対してきちんと「帰天」の表記をしないあたり、この学校が受験のための教育にすっかり堕している様が受け取れます。

・・・などと亡くなった方の話をする前に失礼なことを書くべきではありませんね。いい学校ですよ、ここは。



フェリペ神父はたしか来日されたのは東京五輪の頃だと仰っていたように記憶しています。
私なぞより、よほど「日本滞在歴」の長い方でした。

非常に巨漢でした。ある日の倫理の授業で、神父様が歩くたびに教壇がきしみ、学生はハラハラして今までにない集中力を見せたことがありました。講義直後、クラス全員が熱く授業について語りました。あれはフェリペが壊したのか、と。あのように倫理の授業について熱く語った事は15年経った今でも二度とありません。何についての授業だったかは忘れましたが。



また、とにかくお茶目な方でした。
「なぜこの学校にはプールが無いのですか?」「プールを作ると、一年入れる温水プールにしないといけません」

「なぜこの学校には野球部がないのですか?」「野球部を作ると、応援部を作らないといけません。応援部を作ると、チアガールが要ります。チアを作るには、共学にしないといけません」

どこまで真面目に言っていたのか、スペイン生まれの神父に聞くのも野暮というものですが、私の学校は、私が卒業した年に共学になりました。さらに、その後の「授業未履修問題」のごたごたで、色々と関係の皆様はご苦労されたようです。



私がフェリペ神父様と再会する機会を得たのは、大学3年の北条教会でした。母がカトリックの信者であるためです。私は、できたばかりの彼女(今の妻)を連れて、二人でクリスマスミサに車いすの母を連れて行きました。神父様にご挨拶をしました。もちろん、個人的に親しくしていたわけではありません。ですが、卒業生であることを知ると、非常に喜んでくださいました。

昨年、私たちは北条教会で結婚のミサを(非信徒なので、ご厚意で)あげさせていただきました。教導してくださった神父様から、フェリペ神父が体調が悪いという話をお伺いしたのはその時です。
こんなに早く天に召されるとは思ってもいませんでした。



私がこの学校に入学した時、母の知人でもあり、寮長でもあった、ベレー帽の似合うバスク出身のアンドレス神父。80歳を超えるお年で校長を務め、なお柔道部の指導をしていた門屋先生。今や皆さん天国に行かれました。

私が12歳のころお会いし、初めて目にした時、どの方を目にして感動したことが一つあります。それは、何事にも動じない強い意志です。

門屋先生は超人としか言いようのない方でした(病気で入院されて、握力を測ったら両手とも30を超えたらしい。当時寮内で聞いた有名な話)。引退されてからも良く校内を散歩されていて、休日などご挨拶すると必ず質問してくださいました。そして、最後の教え子である私たちの学年が卒業するまで、欠かさず卒業式に来てくださいました。

アンドレス神父は、個人的にも何度かお会いしたことがあり、私はおかげでホームシックにもならずに寮生活を過ごしました。最期の時、自分にこの試練を与えて下さった神様に感謝する、そう言って亡くなられたと聞きました(もう10年くらい前だと思うが)。



本当に、皆さん勁い意思を持たれた方たちでした。それは、これが信仰の力なんだろうと今の私は漠然と思っています。



私たちが卒業した2002年2月1日、私たちの卒業式で、フェリペ神父様は、私たちのためにミサを挙げてくださいました。香を振り、私たち卒業生の幸せを神様に祈ってくださいました。
アルバムに書いてくださった言葉は、「近くの友人は、遠くの親戚に勝る」。
全くの他人だった私たち寮生が、共に暮らし、友人になり、また同じ祈りのもとに分かれて行く。
フェリペ神父は、そんな様を、いつものように、にこやかに眺めておられました。

私たちを祝福して下さった方が、自分の信じ、愛する方の所にお戻りになった。
もしかしたら、悲しむべきことでは必ずしもないのかもしれません。
しかし、私たちを見守ってくださった方を送る私たちには、やはり大きな過去との別れの一つなのです。魂の安らかならんことをお祈りしつつ、私たちは私たちの道を歩んでいこうと思います。

2010年4月23日金曜日

Insemination

Two week before last (Apr. 10),  My wife and I went to her home. Her home is in Chiba prefecture. 
It was clear day. We started insemination of the corn.  The name of variety is "Gold Rush". I want to see those corn get a good crop, however, this year, It's not blessed with good weather. 

The field scale is 25a. we made two duo. One  sets seed, then another cover with soil.

Next, we  poured water on baby rice plants.Many Japanese farmers buy it from JA, because of not only homogeneous, but also part-time farmers. In any case, it require great care!!

I explain the procedure. At the beginning,  we water the cover. The cover composed of three papers, watering prevent it from blowing away.

   



Next, we watered the baby rice plants. They planted two week ago.



At the end, we put manure on rice.



Total time required is about three hours. My parents in-laws do every day until May. And, this activity continues long long time from ancestors' age.  A wooden bucket is one of the trace.



2010年4月21日水曜日

ある地方都市の繁華街ー本町・辻町、スーパー

人口三万人程度の町というのは、世界的に見れば都市の内に入るのだろうか。私は比較文化論とか詳しくは無いから、これがどういう程度のレベルにあるかはわからない。ただ、この町は、つい5年前までは確かにひとつの町であった。


中心街-北条本町-は江戸時代以来の宿場町である。左側に見える「冨屋」というのは、脚本家早坂暁さんの生まれた家で、町の看板「花へんろの町」というのは、早坂さんがそのころの北条の思い出をドラマにしたもの(桃井かおりがお母さん役だったような)。目の前を流れる川は明星川で、秋になると、秋祭りの舞台になります。北条の火事祭りはとにかくみこしを壊したり投げたりする荒い祭りですが、私の住む正岡地区ではおみこしを神社に落っことすのに対して、ここ北条の人たちはこの川に落っことします。


本町を見ていると、この町が松山のコピー、そして、東京の孫コピーであることがわかります。玉枝に銀行、一六本舗、おもちゃ屋さん。これらの店舗はすべて松山の会社であり、北条の、もっと言えばこの町にしかないお店と言うのは冨屋くらいでしょうか。


ここを出て、辻町商店街に入ると、勉強堂という和菓子屋さんがあります。ここは北条しかないかな?






北条にしかない個人経営の店、が無いわけではありません。たとえば八百屋さん・散髪屋さん、本屋さん・・・。私の記憶では、そうした店がたくさんあったのが辻町商店街でした。私はこの写真にも写っているあるお家でピアノを教えてもらっていました。レッスン料は家で作った野菜+500円。


しかし、改めてみた辻町は、ずいぶん変わっていました。まず、ピアノの本を買っていた本屋さんは駅の近くに移転。八百屋さんは無くなり、散髪屋さんだけが残っていました。火曜日は休みらしく、みんな休業中です。手前にあるのは、私が子供のころから「なぞの店」だったマッカーサーインベーダーセンターの看板。ついマッカーサーってつけちゃう辺り、日本人の記憶もすさまじいものがあります。

最後に、辻町の入り口にあるスーパー。ここは昔「フジ」というスーパーでした。三階には食堂とアイスを売っている売店があり、休日亡父に来るまでつれてきてもらったものです。やがて、三階はゲームセンターになり、今や「立ち入り禁止」となりました。二階の本屋さんも一回に移された後、消滅。今はデパートそのものが「安売りセンター」と位置づけられています。お店の張り紙によると、流通と人件費の徹底削減で安売りを実現しているそうです。僕の小学校の同級生のお母さんもここの肉屋で働いていたのですが、今は見かけなくなりました。どうしているのかなあ。。

この変化は、景気の低迷、人口減少、そしてライバルスーパーの参入など色々あります。

しかし、そんな悲しい歴史をたどるこのスーパーですが、魚の仕入れは昔と同じ。すぐそばの北条港直送の新鮮な魚がそのまんま売られます。




むかしはお願いしたらその場でおろしてくれていたのですが、今はどうなんだろ。ちなみにこのカレイ、まだ動いています(写真だとわからないか・・とにかくピチピチ跳ねてました)



私の住む正岡地区は、この北条に1955年ころ合併されました(昭和の大合併)。神社の統合などコミュニティそのものを大きく変えた明治の大合併や、行政効率化を目的として、地域の生活実態以上に広域な合併が強行される例もあった平成に大合併に比べ、中学校区レベルの合併だった昭和の合併はあまり地域的影響を感じさせません。愛媛県は私が小学校のころは70誓い自治体が残され、昭和の合併に失敗した県、という汚名がかけられていました。まあ逆に言えば、その汚名を旗印に20程度まで市町村を統廃合したのが現知事のもっとも大きな業績となっています。

私たち旧正岡村住民はもともと北条に買い物に行っていたし、中学校に入れば、「町の子=北条住民」と一緒の中学校になったものです。ただそれは、逆に北条市が合併して消滅したことに、ほとんど哀愁を感じさせませんでした。私自身、北条の町は買い物に行く町であり、松山市内とさほど変わらない位置づけでした。そして、松山市内は、比較にならないほど、北条より都会なのです。




旧北条市役所(松山市役所北条支所)には、「北条市の歩み」という碑があります。誇らしげに書かれる歩みは、道路、公共施設の整備の歴史でもあります。皮肉なことに、この道路が松山市内への利便性を確保し、北条の町の存在意義を低くしたのかもしれません。



大学の桜は開き始めました。この聖カタリナ大学とカタリナ修道女会を始め、北条の町には、まだまだ町を必要とする多くの人たちがいます。そして、町を愛し、われわれよりちょっとしゃれっ気の多い「町の子」たちがいます。



町の中に、小さなお堂や神社があります。今日も、黙々とその周りを草抜きしている奥さんがいました。桜がきれいです。名所めぐりもいいけれど、自分の町にこんなスポットがあったら、ついその前を通りたくなるものです。この町に住む人の、町を行きかう人への愛情が感じられます。これこそ、宿場町の誇りなんじゃないかと思ったり。



北条市内は、他地域の人の買い物センターとしての役割を終え、住民の憩いと、われわれ山側の住民の一休みの場に変貌しようとしています。この町の緩やかなリタイアが、幸のある第二の人生への転換でありますように。

2010年2月26日金曜日

農山漁村の資源活用フォーラム

・・・というものが2月23日にありました。
見に行ったわけではなく、分科会の講師を任されました。

駆け出し貧乏人の私にとっては謝礼が!名誉なことで、非常にありがたい経験でした。

内容についてここにUPしたいと思っているのですが、4月10日の学会報告の内容を含んでいるので
資料をそのまんま上げるのはもう少し先にさせてください。

内容は3章建て、5つのパートでした。順に

①社会科学者は農村で何をしているのか

②-1 聞き取り調査から注目する、土地改良区という組織の仕組み

②-2 データを用いた、農家のネットワークの分析

③-1 水路の情報、分析結果を伝えるツールとしてのGIS(geographic Information System)の使い方

③-2 データを使ってもらい、「住民自身が水路の使い方を決める」ワークショップの方法

大体こんな感じです。


反応ですが、まず一番多かったのは「うちの土地改良区にはそんなデータはない」といった文政手法への否定的な意見。ただ、これはおそらく誤解だろうと思います。というのも、僕が使ったデータは、土地改良区が賦課金を徴収するために使っている資料に書いてあるデータなので、「お金を集めている土地改良区なら絶対あるデータ」と言って問題ない。当然、お金を集めていない(もしくは、集めきれていなくても、請求を出していない)土地改良区は無いはずですからね・・・。
この点は、つまり私のスライドに「分析データの詳細」が説明されていなかったことから来た誤解だと思われます。自分の不備であり、反省点です。


次に多かったのは「分析した場所ではそうなんでしょうが、うちの土地改良区ではね・・・」という反応。これは確かに批判として一理ある。ある国営規模の土地改良区さんの管内で、私の分析がしらみつぶしにできるか、といわれると自分も自信はない。もうすこし手法が洗練されたら別かもしれないけれど。

最後に、積極的な内容の解釈への質問。特に印象に残った質問が二つ。


一つ目は「地域用水が農業用水に変わった」というが、地域用水としての側面と農業用水としての側面をどのように分けているのか、という質問。これは、私の分析では維持管理の範囲が「農家は農地部分、非農家は住宅付近」という現状から表現したものです。住民=農家だった時代には、この変化は「地域用水=農業用水」の構図を変えていないので問題ないのですが、現在起っているのは非農家(元農家)の拡大です。彼らが「自分の住んでる所だけで済ませたい」と言えば、残った農家の負担はどんどん拡大します。用水が「農業用水」であれば、そういった農家の負担増に進む可能性は大きいのではないかと考えます。

二つ目は、「維持管理の負担を耕作者だけで背負うのはやはり無理だという認識か」という問いです。私の対象地域では、下部組織が非農家や工場に面積割の賦課金を掛けていたり、所有者が原則組合員になっているので、耕作者に賦課金や管理活動が集中するという状況にはないようですが、多くの地域ではそうではないのだなと察せられます。
賦課金の徴収率についても、私の対象地域はほぼ100%徴収を達成していて、その原動力と思われる区単位徴収・奨励金(還付金)システムに質問が相次いでいました。

もう少し分析が進んで、「維持管理行動や合意形成にプラスの要素は何か」といったことを具体的に言えると良かったのでしょうが、まだもう少し時間がかかりそうです。
そういう意味でも、今回の報告は、改めて土地改良区というものの多様性と複雑さを思い知らされることになりました。
まだまだ修行が足りませんね。

ちなみに、打ち上げで「なんでこの時期にこのイベント?」と聞いたところ、コーディネーターが「平成22年2月22日なんて二度とないタイミングじゃないか!」ということで決まったらしい。なんじゃそりゃ・・・。しかし楽しいイベントでした。ご参加いただいたみなさん、スタッフの県職員の方々、パネリストの先生方、そして、私の分科会を聞きに来ていただいた35名の皆さまに厚く御礼申し上げます。

2010年2月19日金曜日

初めての投稿論文

投稿した論文が掲載されました。

査読されるというのは初めての経験でした。何より、内容や議論の進め方、本当に共著者のお二人にお世話になりました。聞き取りをベースとする論文の内容というのはなかなかに難しく、はたしてこれで何を調べたかったのか、当初の想定はどの辺に飛んでいったのか、何より、この論旨から何か出てくるのか、自分自身も読み返して良くわかっていない代物なのかもしれません。

とりあえず、現地報告に用いた資料を使って、内容を要約すると、




【新しい社会関係(土地改良区)とその課題】

土地改良区と、複数の維持管理会を比較することで、土地改良区単位での協調行動が低調である原因を3点にまとめた。

       土地改良事業によって、水の希少性が解消されたため、協調行動の必要性が薄くなった。
       土地改良区・維持管理会は集落より広範で、線引きが人工的であるため、信頼や規範が形成されにくい。
       土地改良区・各維持管理会は、それぞれ独立した意思決定組織であるため、土地改良区は水の分配に、維持管理会は担当地域の管理に集中しがちになりやすい。

【古来の社会関係(集落)とその課題】

 末端水路の維持管理を行っている集落の現状と課題を、特に農家と非農家の水路をめぐる認識の違いとしてまとめた。

       農家:農業用水の受益範囲=集落内水路+農地部分の水路
一本の水路として、非農家も農業用水路・排水路を利用し、利益を得ている。
       非農家:農業用水の受益範囲=集落内の水路
各家庭への引水・消流雪用水として使われる範囲が非農家の受益範囲、  残りは農家の受益範囲と認識

 【水利システムから得た結論】

維持管理行動を共同で行う単位は、受益者意識を共有する範囲によって決まる。

当該地域では、以下の二点が受益者意識に影響を与えている。

     土地改良事業の結果、上流・下流、取水口の位置による有利・不利が解消し、土地改良区管内の水利条件がほぼ均一化した。 この事が土地改良区管内での協調行動の必要性が減少する原因となっている。
     土地改良の過程で、地域用水が農業(専用)用水に再編された、と考えられた。 この事から、生活用水路としての利用部分を除いて、水路の受益者が農家に特定されたという認識が生まれた。

今後の課題】

A     農村の変化と農地・水・環境保全向上対策で想定される「地域ぐるみ管理」の現実

  管理作業の分担を、農家・非農家で分けることはマニュアル上問題無い。しかし、農業従事者が減少していった場合、作業負担者が農地耕作者に限定されれば、耕作者には大きな負担が生じる可能性がある。

  維持管理会ごとの管理作業日程・内容がことなることから、複数の維持管理会区域をまたぐ耕作者は作業内容への不満や戸惑いが見られる。こうした負担も、規模拡大が進行する中で大きくなる可能性がある。


B     農地部分の水利施設の維持管理への参加を増やすために考えられる事

  非農家にとって利益を感じる水路づくりや取り組み
  維持管理の負担者を耕作者から土地所有者へ変える

・・・といったことをまとめている。はず。

政策を論じ、その影響をインタビューするというのはわかりやすい手法と言えば分りやすい手法なんだけど、どの程度正確な議論であるかを確かめる術がない。言いっぱなしになり易い処がある。この論文にそうした良くない「農経アプローチ」の片鱗が見え隠れする。

もちろん、それは、私自身の調査能力の不足と、事前の仮説設定ができていなかったことに原因がある。

今後の反省材料としたい。

2009年11月30日月曜日

坂の上の雲見ました

さて、今日はちょっと出かけているんで気分転換に『坂の上の雲』の感想を。

まず、圧倒的に面白い。

直前までやっていた大河ドラマのことは言うまい。ドラマである。しかし、あまりにも嘘がひどかったね。
それから、各個人の描かれ方が単純すぎた。織田信長の狂気と、徳川家康の狡猾さみたいな描写は、「としまつ」辺りからまったく変わっていない様式美扱い。なるほど日本人は水戸黄門が好きだったころからまったく変わっていない。そういう人たちにとって、歴史とは、「自分の教えられた、型どおりの人物を見て、過去と現代の自分を比較するためのもの」に過ぎないのだろう。

今回のドラマを「映画のよう」と言っている人がいる。それは、上記のような「単純化された人物像」を排除し、人間の複雑さを描こうとしていること、そして、名優たちがそうした表現を可能にしていることが大きい。また、渡辺謙さんのナレーションによって「新聞調」といわれてしまう司馬氏の冗長な解説を、脚注以上の効果で見せることができている。こうした点で、いわゆる「歴ヲタ」にとってこのドラマは面白いものになっているんじゃないだろうか。

それから、最後のシーンで出てきた「日本紳士は礼儀正しく、法に従うべき」と言ったシーン。貧しくても笑顔があり、立身出世の夢がある明治日本に、素直にあこがれてしまう。これは司馬氏自身がこの小説で描こうとした事でも合ったろうし、このドラマ全体を導く登りの坂道でもある。エンディングの山はどこなのだろう?石鎚山?ドラマ制作者も含めて、このドラマにこめられた渾身の思いは、十分に伝わったと思う。

ただ、「司馬史観」などと呼ばれるものをこうしたドラマで吹聴すべきではない。まず、明治と昭和の断絶を説く司馬氏の発想は、個人の体験に束縛された情緒的評価である。むしろ、明治時代の国家がやってきた富国強兵と領土拡大による経済成長が、行き詰まりを見せていたのに、転換に失敗したのが昭和の初期だという意見に私は賛成したい。昭和時代の日本のリーダーが、部分最適な選択を重ねた末に対米戦争に追い込まれる段は加藤陽子氏の著作に詳しいが、私には史観としてはこちらのほうが説得力を感じる。

司馬氏自身がこの小説に多くのデフォルメを加えていることは講談社現代新書の「日本海海戦の真実」を読んだ高校のころから知っていたが、購読している文芸春秋などで数ヶ月にわたって繰り広げられた団塊世代のノスタルジックな「坂の上の雲待望論」を見せ付けられるたびに、私はそんな思いを新たにしてきました。

しかし、そうした問題を経てもなお、私はこの『坂の上の雲』が圧倒的に面白い。

何故かって?

それは私が「伊予人」だからです!

愛媛が注目されることなんてしばらく無いでしょうし(もう秋山兄弟も子規も東京に移ってしまいましたが)、郷土の英雄が、東京人に馬鹿にされながら豪胆にも立身出世を目指すその愚直な姿が、東京砂漠に隠れ住む愛媛人には一滴の清涼水です。

とまあ色々書いてきたのですが、このドラマが近年の腐った大河ドラマや歴史系ドラマとは異なったものであること、司馬氏が描こうとした明治日本のポジティブなストーリーを「歴史としてではなく、物語として」楽しめそうだという確信が持てたこと、そして、愛媛万歳!の観点から、このドラマを楽しみたいと思います。

・・・あれ?内容についてぜんぜん書いてない?ま、それは疲れたので原作で。。。

中山間地域フォーラム2021年度シンポジウムのお知らせ

 私が所属するNPO法人中山間地域フォーラムのシンポジウムが7月10日(土)にオンラインで開催されます。 タイトルは「 新たな農村政策を問う ~農村発イノベーションは広がるか 」です。  基本計画が新しくなり、新しい農村政策に関する有識者の提言もなされました。現場の新しい活動と、...